震災から今日で2週間めです。私の住む町は平静さを取り戻してきています。
それだけでも嬉しいです。
変わらぬ空、流れる雲。春分を迎えた力強い陽射し。
何事も無いこと「無事」の有難みを実感します。
私は常日頃からいろいろな事に注意をしています、
そして役割上出合った多くの皆さんにメッセージを送ること、健康な身体づくりのお手伝いを行っています。
精神的肉体的な健全性の維持をいつもいって来ました。
「いざという時」「万が一の時」
これは来ない、という前提でなく、いつ来てもと覚悟しています。
世の人々の行いが多いに乱れているのを見た時、政治家や経済人たちが理不尽なことを当然のようにしている時々、
自分の奥底の中で「危ないかも知れない・・」そんな胸騒ぎが起こることもあります。
思えば、なぜ自分がそういう感覚になったのか、そんなことを思い出しました・・
これは私事ですが、母に聞いた話では、
生まれた時に逆子で出てきた時は息をしていなくて、お医者さんにお尻を叩かれてから泣き始めた、とのことで「生まれつきから生死の境にいたりして、困ったもんだったよ・・」といわれました。
そして10歳の時に当時住んでいた家は坂の下にあり、
ある雨の日に習い事の帰り道に自転車に乗っていて急に横から飛び出してきた車にはねられそうになり、
3メートル下へ自転車ごと落っこちて頭を打って脳震盪を起こし2日ほど記憶喪失になったこと。
1985年の高校2年生の5月中旬に上海で武術を学んできて競技大会に向けた練習をハードにしていて腹が痛いなと思っていて我慢をしていて、
それでも続けていてある朝あまりにも痛いので学校を休んで病院へ行ったら盲腸炎を通り越して腹膜炎になっていてその日の午後に急遽手術をして、
夢の中でちょうど今の時候のようなめいっぱい広がった菜の花畑でくつろいでいて、後ろから声がしたので目が覚めたら全身から痛みがあって声も出なくて身体中から管が出ていて、
父が腕を組んで座って眠っていた姿を見ました。それから退院まで1ヶ月ほどかかりました。
思えば3回ほど死に掛けた経験が関係しているのかも知れません。
そのことゆえに「身体について」「生命について」「人生について」
人一倍に真剣になったのだと思います。
そして当時住んでいた町ではいろいろなことが起こりました。
一番最初は小学校5年生の時、このときはまだ武術をやっていなくて水泳の選手コースにも入っていた剣道少年でした。
自分の隣の席にはとても親切な女の子がいて、忘れ物の多い自分はよく消しゴムを借りたり、ティッシュペーパーをもらったり、
先生に指摘されてわからない問題の答えを教えてもらったりしました。書道がとても上手でいつも賞をもらっていました。
ある日の朝、その子がお休みをしていました「友達からは昨日交通事故にあっちゃったらしいよ」と聞きました。
「ええっ本当!じゃあみんなでお見舞いにいかなきゃな」そんな話をしていました。
その日のお昼休みが過ぎて、先生がなかなか来なくて午後の授業がかなり遅れていました。
教室内はざわざわしていました、そこへ担任の先生が入ってきて、
机の上で「・・さんが亡くなりました」といってすぐに号泣して泣き崩れました。
みんながみんな教室中で泣き始めました。
とにかく悲しかったです。
次の日の夕方にお通夜がありクラスの全員で行きました、
遺影を見て「何で急にいなくなっちゃうんだ、何で・・」
その後すぐに悪友たちと一緒に事故現場へ行き花を添えました。
手を合わせて、いろいろと考えました。
現場には血がまだ残っていて、複雑な思いがしました。
事故原因は車のスピードが出し過ぎてカーブが曲がれなくなりお母さんと共にはねられてしまったそうです。
思うと今でも自分が車に乗らないのはこのことが関係しているのかも知れません。
そして中学生になり、秋から武術を習うようになりました。
理科の先生が空手をやっていて、拳がとても大きくて「先生、ちょっと突くからよけてみて」
といって空手を習っている悪友と一緒にいつも絡んでは相手をしてくれました。
その先生の家は自宅から近くでした。
ある日の夕方、辺りには消防車のサイレンが鳴り響き始めました、
その悪友の一人がいきなり家にやってきて「・・先生の家が大変だ」といって一緒に駆けつけました。
先生の家か火事になっていました。
消防車が何台もやってきて炎でオレンジ色に染まった中で放水作業を繰り返していました。
「先生・・」
火事が消し止められて、周りへは「皆さん!火事を消し止めました速やかにお帰りください!」
といわれて帰りました。
悪友と一緒の帰り道に「先生、大丈夫かなぁ」と話しながら帰りました。
次の週明けの朝礼で校長先生が「残念なお知らせをすることになりました」といい、
「理科の・・先生が火事で亡くなられました」皆さんで黙祷をささげましょう・・
教室に戻ったら「実は先生は自殺だったらしい、家に火をつけて猟銃で喉を撃ったらしいよ」
「本当か。」「何でだ。」「知らないよ。」「お前誰に聞いた。」「A組の・・先生」「そうなのか・・」
このときも遣る瀬無い思いがたくさんありました。
高校一年生の時、いつもお世話になっていた商店会の靴屋さんのおじさんが行方不明になった、と美容院を経営していた母に聞きました。
「ええっ何で」「知らない」「どうしたんだろう」
それから数日後、近くの駐車場で亡くなった状態で発見された、と聞きました。
「何だ、それ」「おかしい」「絶対におかしい」
それから数ヵ月後に今度はゲームセンターを経営していた肉屋のおじさんが行方不明になったと聞きました。
この町に何が起きているんだ・・恐ろしい。
その数日後にゲームセンターのおじさんが秩父の山に入っていて倒れていたところを発見された、自殺らしい、ということでした。
1985~86年ぐらいのことでした。
自分は後に大学入試を失敗し、家を出て一人暮らしを始め、予備校に通い、
全日本太極拳協会で事務局のアルバイトをしながら来日していた徐文忠老師やお嬢様の徐淑貞老師、楊承冰老師や何福生老師に武術を学びました。
実家が立ち退きをすることになり、20年住んだその町を離れ府中へ引っ越しました。
自分は府中が合わなかったので、12年前に今の横浜へ引っ越しました。
東京で生まれて、東京で育ちました。
今でも懐かしの町を訪ねることがあります。
何か理不尽で、やる瀬無い思いに駆られたことが多すぎました。
今から振り返れば、政治問題とか町においての利権とか、そういったものが絡んでいたように思います。
一生懸命に生きることの重要さ、
ひたすら純粋に一生懸命でもあるきっかけで巻き込まれてしまうこともある。
そんなことを思い出しながら、人はありとあらゆる生と死と隣り合わせに生きている。
そのことゆえに「無事」の尊さを思うのです。
それだけでも嬉しいです。
変わらぬ空、流れる雲。春分を迎えた力強い陽射し。
何事も無いこと「無事」の有難みを実感します。
私は常日頃からいろいろな事に注意をしています、
そして役割上出合った多くの皆さんにメッセージを送ること、健康な身体づくりのお手伝いを行っています。
精神的肉体的な健全性の維持をいつもいって来ました。
「いざという時」「万が一の時」
これは来ない、という前提でなく、いつ来てもと覚悟しています。
世の人々の行いが多いに乱れているのを見た時、政治家や経済人たちが理不尽なことを当然のようにしている時々、
自分の奥底の中で「危ないかも知れない・・」そんな胸騒ぎが起こることもあります。
思えば、なぜ自分がそういう感覚になったのか、そんなことを思い出しました・・
これは私事ですが、母に聞いた話では、
生まれた時に逆子で出てきた時は息をしていなくて、お医者さんにお尻を叩かれてから泣き始めた、とのことで「生まれつきから生死の境にいたりして、困ったもんだったよ・・」といわれました。
そして10歳の時に当時住んでいた家は坂の下にあり、
ある雨の日に習い事の帰り道に自転車に乗っていて急に横から飛び出してきた車にはねられそうになり、
3メートル下へ自転車ごと落っこちて頭を打って脳震盪を起こし2日ほど記憶喪失になったこと。
1985年の高校2年生の5月中旬に上海で武術を学んできて競技大会に向けた練習をハードにしていて腹が痛いなと思っていて我慢をしていて、
それでも続けていてある朝あまりにも痛いので学校を休んで病院へ行ったら盲腸炎を通り越して腹膜炎になっていてその日の午後に急遽手術をして、
夢の中でちょうど今の時候のようなめいっぱい広がった菜の花畑でくつろいでいて、後ろから声がしたので目が覚めたら全身から痛みがあって声も出なくて身体中から管が出ていて、
父が腕を組んで座って眠っていた姿を見ました。それから退院まで1ヶ月ほどかかりました。
思えば3回ほど死に掛けた経験が関係しているのかも知れません。
そのことゆえに「身体について」「生命について」「人生について」
人一倍に真剣になったのだと思います。
そして当時住んでいた町ではいろいろなことが起こりました。
一番最初は小学校5年生の時、このときはまだ武術をやっていなくて水泳の選手コースにも入っていた剣道少年でした。
自分の隣の席にはとても親切な女の子がいて、忘れ物の多い自分はよく消しゴムを借りたり、ティッシュペーパーをもらったり、
先生に指摘されてわからない問題の答えを教えてもらったりしました。書道がとても上手でいつも賞をもらっていました。
ある日の朝、その子がお休みをしていました「友達からは昨日交通事故にあっちゃったらしいよ」と聞きました。
「ええっ本当!じゃあみんなでお見舞いにいかなきゃな」そんな話をしていました。
その日のお昼休みが過ぎて、先生がなかなか来なくて午後の授業がかなり遅れていました。
教室内はざわざわしていました、そこへ担任の先生が入ってきて、
机の上で「・・さんが亡くなりました」といってすぐに号泣して泣き崩れました。
みんながみんな教室中で泣き始めました。
とにかく悲しかったです。
次の日の夕方にお通夜がありクラスの全員で行きました、
遺影を見て「何で急にいなくなっちゃうんだ、何で・・」
その後すぐに悪友たちと一緒に事故現場へ行き花を添えました。
手を合わせて、いろいろと考えました。
現場には血がまだ残っていて、複雑な思いがしました。
事故原因は車のスピードが出し過ぎてカーブが曲がれなくなりお母さんと共にはねられてしまったそうです。
思うと今でも自分が車に乗らないのはこのことが関係しているのかも知れません。
そして中学生になり、秋から武術を習うようになりました。
理科の先生が空手をやっていて、拳がとても大きくて「先生、ちょっと突くからよけてみて」
といって空手を習っている悪友と一緒にいつも絡んでは相手をしてくれました。
その先生の家は自宅から近くでした。
ある日の夕方、辺りには消防車のサイレンが鳴り響き始めました、
その悪友の一人がいきなり家にやってきて「・・先生の家が大変だ」といって一緒に駆けつけました。
先生の家か火事になっていました。
消防車が何台もやってきて炎でオレンジ色に染まった中で放水作業を繰り返していました。
「先生・・」
火事が消し止められて、周りへは「皆さん!火事を消し止めました速やかにお帰りください!」
といわれて帰りました。
悪友と一緒の帰り道に「先生、大丈夫かなぁ」と話しながら帰りました。
次の週明けの朝礼で校長先生が「残念なお知らせをすることになりました」といい、
「理科の・・先生が火事で亡くなられました」皆さんで黙祷をささげましょう・・
教室に戻ったら「実は先生は自殺だったらしい、家に火をつけて猟銃で喉を撃ったらしいよ」
「本当か。」「何でだ。」「知らないよ。」「お前誰に聞いた。」「A組の・・先生」「そうなのか・・」
このときも遣る瀬無い思いがたくさんありました。
高校一年生の時、いつもお世話になっていた商店会の靴屋さんのおじさんが行方不明になった、と美容院を経営していた母に聞きました。
「ええっ何で」「知らない」「どうしたんだろう」
それから数日後、近くの駐車場で亡くなった状態で発見された、と聞きました。
「何だ、それ」「おかしい」「絶対におかしい」
それから数ヵ月後に今度はゲームセンターを経営していた肉屋のおじさんが行方不明になったと聞きました。
この町に何が起きているんだ・・恐ろしい。
その数日後にゲームセンターのおじさんが秩父の山に入っていて倒れていたところを発見された、自殺らしい、ということでした。
1985~86年ぐらいのことでした。
自分は後に大学入試を失敗し、家を出て一人暮らしを始め、予備校に通い、
全日本太極拳協会で事務局のアルバイトをしながら来日していた徐文忠老師やお嬢様の徐淑貞老師、楊承冰老師や何福生老師に武術を学びました。
実家が立ち退きをすることになり、20年住んだその町を離れ府中へ引っ越しました。
自分は府中が合わなかったので、12年前に今の横浜へ引っ越しました。
東京で生まれて、東京で育ちました。
今でも懐かしの町を訪ねることがあります。
何か理不尽で、やる瀬無い思いに駆られたことが多すぎました。
今から振り返れば、政治問題とか町においての利権とか、そういったものが絡んでいたように思います。
一生懸命に生きることの重要さ、
ひたすら純粋に一生懸命でもあるきっかけで巻き込まれてしまうこともある。
そんなことを思い出しながら、人はありとあらゆる生と死と隣り合わせに生きている。
そのことゆえに「無事」の尊さを思うのです。