武徳。
その名で表されているように「武術道徳」のことです。すなわち武芸者たる人の持つ道徳修養の品質の習性が伝えられ続け今日に至る、ということができます。
それは個人の体得した武術精神での主体であり、個人の意志を尊重しながらも広い武術世界においての内在秩序でもあります。
個人の武徳の重要性は社会の秩序や規範が乱れ、人々の心に拠りどころが失われる時代にこそ更にその実践を強調するべき意義があります。
その武徳を理解、体得していくには、歴史から学び 練武、用武、授武、比武などの研鑽を怠らず武術活動を行うことが求められます。
武徳の起源と発展
中国武術における「武徳」は伝統文化の歴史的発展に伴ってきました。
殷周時期においての文献に最も早く「拳」の字が出てきます。
「詩経・小雅・巧言」には「無拳無勇、職為乱階」とあり、歴史的古典の中にも明確な武徳を内包する文章が出てきます。
「拳」とは攻防や格闘術のことを指し、「勇」とは「勇力」「勇敢」さの精神の品性が解かり、ここには原始的な武徳の内容を表しています。
三国時代、韋昭の注釈の「国語・斉語」には「大勇為拳、欠少徳行人、拳芸提高・・」とあります。
ここから教えられることは「無拳無徳」であり、あるいは「無徳者不如無拳」である、ということです。
「可能為武術 伝授之戒教」武術を伝授するということは「戒め」も教える、ということでもあります。
「武徳」の一字は最も古いものは3000年前に出てきます。記載されているのは西周から春秋時代の諸侯の国史の典籍である「国語」の中に説法においての記録に出てきます。
西周の時期には「礼制」があり、武事活動と「礼」が結合するようになり、射箭(弓矢)において人材と技術能力を見るには厳格な「礼儀」の等級と規定をおきました。
所謂「礼射」には「大射・賓射・燕射・郷射」の4種類の制度を設け、ここに「道徳礼教」の思想が起こりました。
春秋戦国時代には諸侯が相い争うようになり、重視されたのは「拳勇」「技撃」です。
唐の時代の社会では多くの文化が発展・繁栄し武術界でも大きな展開が起こりました。武挙制度が始まり、職業的武芸者が出現しました。
ここからは客観的な基準から武術各流派の人物を選別するようになり、武徳表現の形式も定められて「武徳」が系統化していくように向かっていくようになりました。
南北の両宋の時代。「尚武精神」が尊ばれ民間での武術活動がより活発化し能力は飛躍していきました。
ここで武徳は「武芸を学ぶ喜び」「師を尊ぶ」道を更に重視するようになりました。
宋の時代は多くの都市が商業的にも繁栄した時期で「諸色芸人」つまりは大道芸人が増え、人前で敬礼を表すことに拳礼を行い、礼儀方法も具体化していきました。
明清時代は中国武術の集大成した時代です。流派は林立し拳種も多く増えました。この時代に現代まで続く体系が完成したといえます。
この時代から新たな展開が起こり「一徒不能二師:一人は二人の師につくことはできない」「伝男不伝女:男性だけに伝承し女性には伝えない」
「不伝外姓:違う姓の人には伝えない」などという保守的な概念を突破し 各流派で一つの武徳規範を持つようになりました。
清の時代「武技書」の「初学項目」の規定には「学拳以徳為先:拳を学ぶにあたっては、先に徳を学んでから」とあります。
これには恭敬や謙譲の精神があればこそ、人と争うようなことはなくなり、武芸をもって徳を失ったことから損をしたり、辱しめを受けたり、することがなく
防身や健身活動が生命の安全をずっと良好に保つことができる、ということを戒めとして教えてくれています。
「少林拳短打十戒」には10条があり、その中の6条に武徳に関する規定があります。武当拳にも「十伝十戒」があります。
どの流派にも共通しているのは「習武先習徳:武を習う前に徳を習わねばならない」
そして「短徳者不可与之学:短い徳の持ち主にはこれらを学ばせることはできない」というものです。
そして同じように強調しているのは、武芸者たるは「仁愛」「守礼」「忠誠」などの厚く寛大な「美徳」を大事にしていることです。
門戸を大きく開き、信念はそれぞれあっても誰でも受け入れ、師、門徒共々に成長・発展を願うものでもあります。
そしていつの世においても現存する「社会」の風潮や傾向などとも共存しなければならない時があり、その時には、
その「社会秩序の矛盾」とも向き合い「何が害悪なのか」を考え、
己においては「克己自律:己に打ち克ち、自律する」「兼善天下:天下が共に善くなることを願う」
そして更に「善」の精神や概念を研鑽して努力を積み重ねていかねばならないことです。
伝統武徳の意識
中国武術における「武徳」は長き伝統思想や哲学に影響を受け、
儒教的徳性、道教的心性、仏教的解釈性の3つが融合したものであります。
その性質としては「仁」「義」「礼」「智」「信」「勇」の道徳精神に集約されています。
その名で表されているように「武術道徳」のことです。すなわち武芸者たる人の持つ道徳修養の品質の習性が伝えられ続け今日に至る、ということができます。
それは個人の体得した武術精神での主体であり、個人の意志を尊重しながらも広い武術世界においての内在秩序でもあります。
個人の武徳の重要性は社会の秩序や規範が乱れ、人々の心に拠りどころが失われる時代にこそ更にその実践を強調するべき意義があります。
その武徳を理解、体得していくには、歴史から学び 練武、用武、授武、比武などの研鑽を怠らず武術活動を行うことが求められます。
武徳の起源と発展
中国武術における「武徳」は伝統文化の歴史的発展に伴ってきました。
殷周時期においての文献に最も早く「拳」の字が出てきます。
「詩経・小雅・巧言」には「無拳無勇、職為乱階」とあり、歴史的古典の中にも明確な武徳を内包する文章が出てきます。
「拳」とは攻防や格闘術のことを指し、「勇」とは「勇力」「勇敢」さの精神の品性が解かり、ここには原始的な武徳の内容を表しています。
三国時代、韋昭の注釈の「国語・斉語」には「大勇為拳、欠少徳行人、拳芸提高・・」とあります。
ここから教えられることは「無拳無徳」であり、あるいは「無徳者不如無拳」である、ということです。
「可能為武術 伝授之戒教」武術を伝授するということは「戒め」も教える、ということでもあります。
「武徳」の一字は最も古いものは3000年前に出てきます。記載されているのは西周から春秋時代の諸侯の国史の典籍である「国語」の中に説法においての記録に出てきます。
西周の時期には「礼制」があり、武事活動と「礼」が結合するようになり、射箭(弓矢)において人材と技術能力を見るには厳格な「礼儀」の等級と規定をおきました。
所謂「礼射」には「大射・賓射・燕射・郷射」の4種類の制度を設け、ここに「道徳礼教」の思想が起こりました。
春秋戦国時代には諸侯が相い争うようになり、重視されたのは「拳勇」「技撃」です。
唐の時代の社会では多くの文化が発展・繁栄し武術界でも大きな展開が起こりました。武挙制度が始まり、職業的武芸者が出現しました。
ここからは客観的な基準から武術各流派の人物を選別するようになり、武徳表現の形式も定められて「武徳」が系統化していくように向かっていくようになりました。
南北の両宋の時代。「尚武精神」が尊ばれ民間での武術活動がより活発化し能力は飛躍していきました。
ここで武徳は「武芸を学ぶ喜び」「師を尊ぶ」道を更に重視するようになりました。
宋の時代は多くの都市が商業的にも繁栄した時期で「諸色芸人」つまりは大道芸人が増え、人前で敬礼を表すことに拳礼を行い、礼儀方法も具体化していきました。
明清時代は中国武術の集大成した時代です。流派は林立し拳種も多く増えました。この時代に現代まで続く体系が完成したといえます。
この時代から新たな展開が起こり「一徒不能二師:一人は二人の師につくことはできない」「伝男不伝女:男性だけに伝承し女性には伝えない」
「不伝外姓:違う姓の人には伝えない」などという保守的な概念を突破し 各流派で一つの武徳規範を持つようになりました。
清の時代「武技書」の「初学項目」の規定には「学拳以徳為先:拳を学ぶにあたっては、先に徳を学んでから」とあります。
これには恭敬や謙譲の精神があればこそ、人と争うようなことはなくなり、武芸をもって徳を失ったことから損をしたり、辱しめを受けたり、することがなく
防身や健身活動が生命の安全をずっと良好に保つことができる、ということを戒めとして教えてくれています。
「少林拳短打十戒」には10条があり、その中の6条に武徳に関する規定があります。武当拳にも「十伝十戒」があります。
どの流派にも共通しているのは「習武先習徳:武を習う前に徳を習わねばならない」
そして「短徳者不可与之学:短い徳の持ち主にはこれらを学ばせることはできない」というものです。
そして同じように強調しているのは、武芸者たるは「仁愛」「守礼」「忠誠」などの厚く寛大な「美徳」を大事にしていることです。
門戸を大きく開き、信念はそれぞれあっても誰でも受け入れ、師、門徒共々に成長・発展を願うものでもあります。
そしていつの世においても現存する「社会」の風潮や傾向などとも共存しなければならない時があり、その時には、
その「社会秩序の矛盾」とも向き合い「何が害悪なのか」を考え、
己においては「克己自律:己に打ち克ち、自律する」「兼善天下:天下が共に善くなることを願う」
そして更に「善」の精神や概念を研鑽して努力を積み重ねていかねばならないことです。
伝統武徳の意識
中国武術における「武徳」は長き伝統思想や哲学に影響を受け、
儒教的徳性、道教的心性、仏教的解釈性の3つが融合したものであります。
その性質としては「仁」「義」「礼」「智」「信」「勇」の道徳精神に集約されています。