この1週間のレッスンの中のテーマで「体育」と「スポーツ」の話しを
あちらこちらで行ってきましたので、ここに集約して記述しておきたいと思います。
体育という概念があります。
これは他にもよくみられますが、日本では抽象的で曖昧なまま持ち込んでしまい、
しっかりとした説明が不十分なまま進展してしまうことがあります。
運動もそうですが、本当の意味での「体育」の意味を考えてみましょう。
本来の言葉通りなら「体を育む」という意味での体育。
人によって求められる目的は「医療」に近いものなのか、
健康な心身を意識的に保持するために行われる体力増進のものなのか、
競技:競い合うことが目的で体を鍛え、栄誉ある勝者と利益を得ることを目指す「スポーツ」なのか、
これらの区別が曖昧なままになっています。
はっきりとした区別の付かないままでの状態を続けることは、
最終的には純粋な「成果」をもたらすのは難しくなります。
(桜の木に咲く花に、梅の花が咲くことはありませんね)
身近によくあることでは「体力をつけろ」あるいは「運動しなさい」の「医師」や周りの方々からに強く勧められ
一番簡単で気軽にはできるということでマラソンやジョギング(最近はウォーキングに改変)
などを始めて、たとえ疲れていても「運動しなきゃ」の思いで行うようになり、
真夏の暑い時などにその時の勢いで走ってしまっていて、
突然の心臓発作や脱水症状などを引き起こし、それが元で亡くなってしまう人が毎年いくつかあります。
(素直に人の言うことを聞いた結果での逆効果、あるいは無責任で場当たり的な思いつきの意見を聞いてしまった故の不幸な結果、というのは今現在あちこちでたくさんあります)
ここで大事なのは「体育」というジャンルをしっかりと理解して知ることです。
先ず医療面から見ても、人によっては運動を行わなければいずれ身体に大きな悪影響をもたらすことがあるので、
その身体の機能強化としての側面から行われるべき医療的体育=養生:生命力の根本を養う方法としての運動。
これは不自然なまでの無理をしないレベルでゆっくり行い継続していくことが大事な分野です。
次に日頃のストレス解消やより充実した生活を楽しむためにも行われる、幅広い身体の運動器の分野において活性化する目的のための運動。
毎日が健康で健全な心身を意識的に築いて継続していくことが目的。
これはレジャー:娯楽的側面を含みそれぞれが望むことが理由であるからこそ「楽しんで」できることを大きな目的とした運動体育=健身:健康な心身づくり。
そして欧米的な概念である「スポーツ=体を使った遊戯、あるいは競技」
勝者になるためには、ありとあらゆる手段を用いる、アンフェアなことであっても勝利を得ようとしていく傾向もあり、ルールは不公平になりがちだからこそ公平なルール作りや改正なども頻繁に起こりやすい。
この運動方法が心身に必ずしもよいとは限らない。
(ゆえに行う スポーツマンが心身共に健全だとも限らない)
多くのイベントを催すことにより経済的な潤いをもたらすために活動を促進させる目的もあります。
スポーツでの勝者は有名になり経済活動などにも有利になりやすく、報酬も多く発生する。
こうして分類をしていけば一つの事実がわかります。
本来「体育」といえば「体を育む」という意味ですが、2つに分かれます。
一つは総合的にみて心身の健全のためにもより具体的に柔軟性や筋持久力を高め
疲れにくい体を作って保持していくために行い、免疫=病気になりにくい心身感覚の向上を常に高めることを目指すことで続け、
人それぞれに程よい運動量をもって体を動かすことで爽快な感覚を得て、毎日をよりよく楽しくできる運動。
もう一つは「スポーツ的身体機能強化」での
、勝者となるために身につけなくてはならない運動強度を高めていくことが目的の「体」をその目的で「育む」スポーツ的体育運動方法を行う、こと。
この両面は行う人が理解して、その自分が進む道を選択しなければならないことです。
「体育」は「漢語」の東洋的概念。「スポーツ」は「英語」の西洋的概念。
よく「体育」が苦手、というお話しを聞くことがありますが、
実はそれは「体育が苦手」だったのではなく
「スポーツ的身体機能強化」の強要で嫌になった、ということが正しいです。
(優勝劣敗、優れた者は偉い、劣った者は駄目。所詮、西洋的な概念から生まれる考えと発想です)
これをどのように取り入れてうまくいくかどうかは、
その「体育指導者」の知識が豊かなのか乏しいのかに関連しています。
心身の準備や適量が伴っていないのに、スポーツ的な運動量を高く要求するのは、
行うことでデメリットの方が遥かに大きくなります。
発展や能力向上には結びつかないことが多くあります。
これは仕事をする面でも同様です。
「良かれ」と思って始めることは「良かれ」という結果に結びつかなければならない。
そしてこれにはT・P・O(時間・場所・状況)にも的確に配慮が為されていなければならないのです。
最も最悪なのは医療としての精神力や身体器官の向上をゆっくりとしなければならない場合にスポーツを求めたり、
自己暗示や洗脳術のようなメンタルトレーニング方法を、元々日頃の積み重ねによって保たれている心身が健全な人に求めるようなこともそうです。
体育はあくまで「体育」でなければなりません。
より向上心を上げたいという目的から「スポーツ」を「体育」に導入することはあります。
しかし「スポーツ」は完全な「体育」にはなり得ないことを知っておくべきでしょう。
これは時に宣伝広告などの文句に謳い、
多くの人を呼び込もうとする狙いで「何でもあり」のように行ったりしているのもよくみかけますが、
やはり言ったこととやっていくことを完全一致させて、
求めた人にそれぞれのジャンルで成果を挙げなければ、それは虚偽の風説の流布に近くなると思います。
今の日本で求められているのは、
言動一致。効能一致。
机上の空論。つまりは机の上の空っぽな理論、最近では人の目を引くために打たれる宣伝文句やキャッチコピーの独り走りになってはならず、当然のことで 妄像や空想ではなく、
現実に実際に得られる良好な効果や成果を具体的・科学的にも立証できるものでなくてはならないと自分は思います。
これらを全部の正しい「体育の概念」において需要と供給を正しくすべきが理解して分別して、
使い分けて、これからの健全な日本国民の心身づくりとして大事だと思います。
あちらこちらで行ってきましたので、ここに集約して記述しておきたいと思います。
体育という概念があります。
これは他にもよくみられますが、日本では抽象的で曖昧なまま持ち込んでしまい、
しっかりとした説明が不十分なまま進展してしまうことがあります。
運動もそうですが、本当の意味での「体育」の意味を考えてみましょう。
本来の言葉通りなら「体を育む」という意味での体育。
人によって求められる目的は「医療」に近いものなのか、
健康な心身を意識的に保持するために行われる体力増進のものなのか、
競技:競い合うことが目的で体を鍛え、栄誉ある勝者と利益を得ることを目指す「スポーツ」なのか、
これらの区別が曖昧なままになっています。
はっきりとした区別の付かないままでの状態を続けることは、
最終的には純粋な「成果」をもたらすのは難しくなります。
(桜の木に咲く花に、梅の花が咲くことはありませんね)
身近によくあることでは「体力をつけろ」あるいは「運動しなさい」の「医師」や周りの方々からに強く勧められ
一番簡単で気軽にはできるということでマラソンやジョギング(最近はウォーキングに改変)
などを始めて、たとえ疲れていても「運動しなきゃ」の思いで行うようになり、
真夏の暑い時などにその時の勢いで走ってしまっていて、
突然の心臓発作や脱水症状などを引き起こし、それが元で亡くなってしまう人が毎年いくつかあります。
(素直に人の言うことを聞いた結果での逆効果、あるいは無責任で場当たり的な思いつきの意見を聞いてしまった故の不幸な結果、というのは今現在あちこちでたくさんあります)
ここで大事なのは「体育」というジャンルをしっかりと理解して知ることです。
先ず医療面から見ても、人によっては運動を行わなければいずれ身体に大きな悪影響をもたらすことがあるので、
その身体の機能強化としての側面から行われるべき医療的体育=養生:生命力の根本を養う方法としての運動。
これは不自然なまでの無理をしないレベルでゆっくり行い継続していくことが大事な分野です。
次に日頃のストレス解消やより充実した生活を楽しむためにも行われる、幅広い身体の運動器の分野において活性化する目的のための運動。
毎日が健康で健全な心身を意識的に築いて継続していくことが目的。
これはレジャー:娯楽的側面を含みそれぞれが望むことが理由であるからこそ「楽しんで」できることを大きな目的とした運動体育=健身:健康な心身づくり。
そして欧米的な概念である「スポーツ=体を使った遊戯、あるいは競技」
勝者になるためには、ありとあらゆる手段を用いる、アンフェアなことであっても勝利を得ようとしていく傾向もあり、ルールは不公平になりがちだからこそ公平なルール作りや改正なども頻繁に起こりやすい。
この運動方法が心身に必ずしもよいとは限らない。
(ゆえに行う スポーツマンが心身共に健全だとも限らない)
多くのイベントを催すことにより経済的な潤いをもたらすために活動を促進させる目的もあります。
スポーツでの勝者は有名になり経済活動などにも有利になりやすく、報酬も多く発生する。
こうして分類をしていけば一つの事実がわかります。
本来「体育」といえば「体を育む」という意味ですが、2つに分かれます。
一つは総合的にみて心身の健全のためにもより具体的に柔軟性や筋持久力を高め
疲れにくい体を作って保持していくために行い、免疫=病気になりにくい心身感覚の向上を常に高めることを目指すことで続け、
人それぞれに程よい運動量をもって体を動かすことで爽快な感覚を得て、毎日をよりよく楽しくできる運動。
もう一つは「スポーツ的身体機能強化」での
、勝者となるために身につけなくてはならない運動強度を高めていくことが目的の「体」をその目的で「育む」スポーツ的体育運動方法を行う、こと。
この両面は行う人が理解して、その自分が進む道を選択しなければならないことです。
「体育」は「漢語」の東洋的概念。「スポーツ」は「英語」の西洋的概念。
よく「体育」が苦手、というお話しを聞くことがありますが、
実はそれは「体育が苦手」だったのではなく
「スポーツ的身体機能強化」の強要で嫌になった、ということが正しいです。
(優勝劣敗、優れた者は偉い、劣った者は駄目。所詮、西洋的な概念から生まれる考えと発想です)
これをどのように取り入れてうまくいくかどうかは、
その「体育指導者」の知識が豊かなのか乏しいのかに関連しています。
心身の準備や適量が伴っていないのに、スポーツ的な運動量を高く要求するのは、
行うことでデメリットの方が遥かに大きくなります。
発展や能力向上には結びつかないことが多くあります。
これは仕事をする面でも同様です。
「良かれ」と思って始めることは「良かれ」という結果に結びつかなければならない。
そしてこれにはT・P・O(時間・場所・状況)にも的確に配慮が為されていなければならないのです。
最も最悪なのは医療としての精神力や身体器官の向上をゆっくりとしなければならない場合にスポーツを求めたり、
自己暗示や洗脳術のようなメンタルトレーニング方法を、元々日頃の積み重ねによって保たれている心身が健全な人に求めるようなこともそうです。
体育はあくまで「体育」でなければなりません。
より向上心を上げたいという目的から「スポーツ」を「体育」に導入することはあります。
しかし「スポーツ」は完全な「体育」にはなり得ないことを知っておくべきでしょう。
これは時に宣伝広告などの文句に謳い、
多くの人を呼び込もうとする狙いで「何でもあり」のように行ったりしているのもよくみかけますが、
やはり言ったこととやっていくことを完全一致させて、
求めた人にそれぞれのジャンルで成果を挙げなければ、それは虚偽の風説の流布に近くなると思います。
今の日本で求められているのは、
言動一致。効能一致。
机上の空論。つまりは机の上の空っぽな理論、最近では人の目を引くために打たれる宣伝文句やキャッチコピーの独り走りになってはならず、当然のことで 妄像や空想ではなく、
現実に実際に得られる良好な効果や成果を具体的・科学的にも立証できるものでなくてはならないと自分は思います。
これらを全部の正しい「体育の概念」において需要と供給を正しくすべきが理解して分別して、
使い分けて、これからの健全な日本国民の心身づくりとして大事だと思います。