タブーはなし!

これは自分のモットーです。


本来の日本語での「禁忌」は忌み言葉です。

これは大和文化背景で、時に人は自分の中ではどうしようもなく「魂」のはたらきが弱まることを「心ある人々」が守るために大事にされてきたことなので守られるべき感覚だと思います。

そして雰囲気の流れの中では 問わず、を選択することもとても大事ですが、

しかし時と場合によって現代日本社会で都合よく使われる「タブー」というカタカナ表記と「禁忌」とは、ちょっと違うかな、と感じました。

それは実は知られぬところで 何か陰でコソコソと人倫(倫理と道徳)に背く 不謹慎・不適格な活動があり、

それが判明しそうな時に、関係者への口止めを強制的に施したり、それを誤魔化したり もみ消そうとするはたらきを指摘することがあり、

その判明を語らせたくないために、その共同利害関係者たち同士が使うサインの言葉を「タブー」と謂うように思います。

私は今までに 実際の体験上、解明をしてもらうために 上役の立場であってもそれを提言したことがありますし、独立してからも、問題を感じた人にも指摘したことがあります。

その「人物」は、立場の違いはあれども、思うには問題があった人は「虚言癖」がある共通の感覚がありました。

古くは「嘘つきは、泥棒の始まり」とはよく言ったものです。

問われるに落ちず、語る(己で)に落ちる、という言葉もあります。

言語を聞けば 必ず 陰陽(本当か嘘か)が生じます。

それは他人を装って、自分のことなのか。あるいは正直な自己の感想の発露なのか、

これらはどれでも、どんなことであれ 証明すべき 自身の表れと、信頼への遵守へのパフォーマンスはあるでしょう。

真実は「瞳」に現れる、と感じます。

人間の行動は、必ず誰かが見ていますし、それを知っています。

良心の元に正直な方はそれを、どこかで悟るものです。

今やネット上では、誰もが事象を見ていますし、記憶しているでしょうし 自由に発信できる時代になりました。


だからこそ「タブー」はなし、が良い。


中国武術界にいると、いろいろな中華人民共和国の政治的影響を受けた事を知ってしまいますが、これからも自分はいつも毅然としていきます。

「聖域なき構造改革」

これは小泉政権で使われたものですが、私は好きな言葉です。

自分自身を都合よく逃げ込む場所(聖域)を偽装的にも作る連中への警告でもあります。

人は誰でも「正々堂々」たれ、タブーはなし。

これからも、これをずっと貫き通して励みます。