先日「脳」の標本をじっくりと見ながら考えました。
人体は基本的に、誰しも同じ構造上にあって、
人体は基本的に、誰しも同じ構造上にあって、
何故に変わっていくかを思うとやっぱり「大脳」のはたらきによります。
生まれて間もない時でも、もう母体の中で脳はできているので 母親の体内の中では、
生まれて間もない時でも、もう母体の中で脳はできているので 母親の体内の中では、
既につくられているはずです。
その元となる核は父親から受け継いでいるので、中枢となる感覚の遺伝子も内在しています。
その元となる核は父親から受け継いでいるので、中枢となる感覚の遺伝子も内在しています。
世に生まれ出てからは、初めは与えられるもので学び、後に自意識で必要なものを求め成長していくものです。
脳が人間をつくるか、あるいは人間が脳をつくるか。
こう考えてみると、それは後天的な要素が大きいと思います。
人間の行動は、全て大脳からの判断、選択、分析から行われています。
皮膚と筋肉群や膜をはがされた頭部、脳の標本をよく見ると「目」が一番脳に近いのが解ります。
そして耳、鼻、舌とあります。
五感の中で、視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚とありますが、
味覚(というよりは、言語を話す舌の感覚も含みます)と触覚は
訓練によって高められていくもののように思いました。
そして視覚、聴覚 嗅覚の3つはより直感的な意識を継続させていくことが重要であり、
自分自身を護るためにもはたらいています。
例えば 我々は時々「この人はバカだ」と思うとき、
対象となる人の「行為」を見て感じることなのですが、
これを考えてみると、
その人の大脳からの判断、分析、選択された動きを感じて思うのです。
その人の大脳からの判断、分析、選択された動きを感じて思うのです。
そして、それは有意識的か無意識かが重要ですが、
潜在的な意識を含めて「有意識的なもの」と「無意識的なもの」と分かれていきます。
そして更に「利他的なもの」と「利己的なもの」とに分類できます。
この中で「有意識的なもの」と「利他的なもの」が結びついた時によった行動は
常に利己的な人々には理解されないもので、これは後に大きな偉業や芸術であったりするものです。
「無意識的なもの」で「利己的なもの」が過剰に積み重ねられ続けると厄介で
疎まれる習慣によった行為が犯罪に近づくことになったりするのでしょう。
そして「無意識的」で「利他的」な行動が「陰徳」や「奉仕」となり、
「有意識的」で「利己的」な行為を抱え過ぎた時、煩悩といわれるものを呼び込むのかも知れません。
しかし人は、毎日の何気ない行動の積み重ねがほとんどです。
つまりは「気付く」という感覚は、五感からなされることで、考える以前に動き出すのが重要にも思うのです。
「人」は、何に気付き、何を起こすかで未来は決まり、今があります。
過去は戻らないし、生きるべき空間でも時間でもないのですね。
いつもながら世間の多くの人々達は 毎日ばら撒かれるように流される、
あまり意味のもたない情報に振り回されていることへ懸念を思います。
同じ「脳」と感覚を持つはずなのに、
同じ「脳」と感覚を持つはずなのに、
それを稼動させられない身体機能の喜ばしくは無い習癖があるからだと感じます。
これだけたくさんの知恵があり、情報収集手段もあり
これだけたくさんの知恵があり、情報収集手段もあり
やろうと思えばコミュニケーションをも24時間とれるはずなのだから、
それを毎日に活かせば何も恐れるものはない、とも思うのです。
今、弱っているのは大自然の力ではなく、国家でもなく、社会でもありません。
弱めてしまっている人の「心」すなわち「脳」だと感じます。
易経の初めに「自強不息」という私の好きな言葉があります。
自ずから強められるよう努め、怠けることなく 心意気を高めよう!