「中国の歴史」がわかる50のポイント、という本(著者 狩野直偵)にとても興味深い文があったので紹介します。


宦官の禍 中国の政治をゆるがせた悪弊(始皇帝の時代)


「宦官」というのは去勢した男子のことで宮廷に使われる小史を指す。

西アジアで古くから存在したが、中国でも盛んに行われた。

刑罰として科せられたもの(宮刑という)、あるいは異民族の捕虜が用いられたが、

後には自ら志願したり(自宮)、あるいは自分の子供を宦官にしたものもあった。

君主の身の回りの雑用(たとえば便器や痰壺を持っている)をするのが本来の職務であるが、

天子や後宮の近くにいることから、やがて政治にタッチするようになる。


その上彼らは通常の人間以上に富や権力に異常な執着心を持ち、王朝の運命を左右する存在になった。

なお宦官は肉体的にはよく肥え、声が高くひげがないのが特徴であり、

後漢の時代、宦官誅滅事件が起きると、一般の人でひげの薄い者は、前をまくって宦官ではないことを示した、という。

中国史上にはしばしば宦官の禍が見られ、先秦時代にもその例があるが、

その大きなものの最初は秦の始皇帝のときにあらわれた。

始皇帝の長子 扶蘇は秀れた人物であったが坑儒事件に対して諌言を行ったため、

辺疆に追いやられた。それでも皇帝は巡幸中に病んだ時、扶蘇が後継者になるよう遺言を書いた。

しかし宦官の趙高は丞相の李斯を巻き込んで、遺言を書き換えた上に扶蘇を殺し、

代わりに自分の自由になる皇帝の末子 胡亥を二世皇帝に立てたのである。


趙高はすべてを自分の思い通りにしようとした。

例えば皇帝に馬を献上して、それを鹿だと偽り これに同意しない者を罰するようなことをした。

わざと違ったことを言って他人の意志を忖度する術は「韓非子」にも見えるところの、

法家で君主の臣下操縦術として教える一つである。


秦の滅亡は、始皇帝の圧政と度重なる外征が要因であったから、

仮に扶蘇が二世皇帝になっても結果は同じだったかもしれない。

しかし趙高が胡亥を立て、陰の実力者として政治を乱したことが、秦の滅亡を早めたといってよかろう。

(~略)