屈原 (くつげん)

楚の詩人・政治家(おおよそ紀元前343~278)
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名は屈平、字が原である。

戦国時代後期に楚の王族として生まれた屈原は、

懐王(かいおう)から信任を受けて左徒の官に任命され、主として法律関係の仕事を行った。

屈原は博聞強記で治乱興亡のあとに明るく、文辞詞章に長けていた。


ある時、屈原の才能を嫉んだ上官太夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言した。

懐王は怒って屈平を遠ざけた。

その後、懐王が張儀(ちょうぎ)に騙され秦に出兵したが、この時、屈原は斉に国交回復の使者として赴いている。

前二九九年、秦の昭王が懐王に会盟を求めてきたが、屈原はこれに反対した。

しかし懐王は臣下の子蘭(しらん)の進言を採り、秦に赴いて囚われの身となる。


楚では代わって頃譲王(けいじょうおう)が即位したが、四年後、懐王が秦で釈放されぬまま憂死したこともあって、屈原は子蘭を憎んだ。

一方の子蘭も屈原を妬み、頃譲王に讒言したため、屈原は再び江南に流された。


やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、人生の幕を閉じたのであった。


そしてそれから、楚の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらにちまきを投げて「屈原」の死体を魚が食べないようした。

その日が中国の年中行事になり、へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事になった。

これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始まりとも言われている。

それがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源という、このようなエピソードから、

毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていった。


国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行ったという。

その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となり、

三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、

やがて日本にも伝わって行った(引用文より抜粋)



善を行っていくには勇気と精神力が要ります。

人は善行を怠るだけで、悪人は簡単に勝利できる、という言葉もあります。


屈原は中国で生まれたが故に不幸な生涯を閉じました。

これに学び、不幸を幸に変えることが後代の人々の仕事だとも感じます。(大変だけれど頑張らなくては・・)