自分は仕事がら、とにかく多くの方々と多くを語ります。
その中で、自分のコメントの中で「これは残しておこう」と記憶にあるものをブログに残しています。
その中で、自分のコメントの中で「これは残しておこう」と記憶にあるものをブログに残しています。
今回のテーマは「曖昧は誰のためか」です。
日本人は、とにかく曖昧です。
多くの話し言葉を聞けばわかりますが、
「よく わからないんだけど~」とか「ビミョー」などと 人は発します。
これは、つまり「自己判断ができていません」ということの自己申告です。
私はできる限り、これらを言いません。
「曖昧」の意味を、判っていない方々が多すぎるのだと思うのです。
そもそも、何故「曖昧」な表現があるかとすると、それは「人の為」にあるのです。
今のオリンピックで大きな問題のある「中国政府」がいい例でしょう。
問題を抱えている人に、直接「問題」がありますね。
というのは、その言われた本人にとっては、とても苦しく辛いことがあるものです。
それ故に「状況はいかがですか?」という「曖昧」表現が、有効で相手への思いやりになる、言葉として大事なのです。
しかし、世間を見ると、使い方が間違っているように思います。
自己弁護と誤魔化しに使う人が多くなってから、おかしくなりました。
質問として、
将来、どの方向に向かうの?という質問に対して、
「君は、どこへ行くの」と 質問に質問で返します。
「僕は東に向かおうと思う」と聞いて、
そうか奴は「東」へ向かうのか、と知り。
「では君は?」という問いに、
「どうしようかな~西がいいな、しかし東もいいな~」
と「曖昧」に応えます。
その後、メリットを考えて東か西かを考えるのです。
これは「日本」以外では、普通なのかも知れません。
「曖昧さ」は大きく二つに分けて、高度に深く掘り下げることを示唆する内容へのヒントとしての「暗喩」と、
それに似せた「はぐらかし」があると思います。
現代では、人それぞれに判断する基準が異なりつつありますが、
私が思うには、自己弁護や誤魔化すために「曖昧」は使いたくありません。
私が思うには、自己弁護や誤魔化すために「曖昧」は使いたくありません。
思いやりとして、判断能力の弱い方に与えるモラトリアム:猶予期間として使うのだと思います。
世間では、最近何でもあり な風潮と傾向がありますが、人の「心」は実はいつも「曖昧さ」はないと思っています。
「曖昧」をどのように使うかで、「その人」が見えてくるように思います。