一喜一憂という言葉には、誰であっても「一時期」にはおそらくあてはまることだと思っています。
思えば「一喜一憂」は「自己」を成り立たせるための一つの過程です。
一喜は、常に性善説に自分が立ち、一憂は性悪説の方に自分で立つのです。
今から数千年前に、孟子が性善説を解き、荀子が性悪説を解きました。
様々な哲学は自分自身がどう生きて、どうであるのかが大事なのか、を過去からのメッセージとして教えてくれるものです・・
自分自身も思えば、常に行動が先にありました。
振り返ると、行動を起こす時は早くしますが、そこに辿り着く前には
どれも考えに考え続けて、たくさんの物事を成り立たせるようにし、乗り越えてきて「今」があります。
「今」時折こうして、のんびり自由な空間と時間の中で精神世界を逍遥するのが好きなのですが、ふとした時に自分の行動を客観的に見て、ゆっくり分析したりできて気付くことがあります。
いろいろと気付かせてくれることがあるものですが、それは「心の声」が教えてくれるのだと解ります。
「心の声」というのは正直なものです、人の心は「悪」であるとすれば「性悪説」に意識は傾き、
人の心は「善」であり、その真心で努力を積み重ねれば「性善説」を大事にする意識が働きます。
どちらが正しい、正しくない、のではなく、つまりは結果として、どうなっていくかが一番大切だと感じます。
「人」は「人」としての倫理を守り、規律と自然法則に従うことが重要です。
だがしかし、それを不自然な形での行動があったりするからこそ、人々は必然的にそれを非難し、あるいは責めたり、罰を受けたりするのだと思います。
人が人を裁いたり、判断をするというのはとても難しい作業です。
現代日本社会では、多種多様で自由な概念を尊重しています。
その中で、感じることは、
「善悪」はどこで別れるか、が非常に定義としても難しくなったようです。
大人たちの多くは、何時の日からか腑に落ちない、解りにくい理屈を振り回すことをたくさん正当化しています。
故に、最終結果として「さびしさ」や「かなしい」結末を迎えているのかも知れません。
小さな子供たちの多くが素直に感じることは正しいことが多いのです(流れの中で修正があったとしても)
子供達は素朴に心地が良く感じるものを「善い:楽しい」とし、心地の悪く感じるものを「悪:にくむ」としています。
今の日本社会では「子供たち」が「大人の悪いこと」の真似をしていて、たくさんの「大人たち」が「子供のような未熟さ」を真似ているように感じます。
何がそうさせたか、とか何が悪いでは、ありません。
何故そうなのか、を問えばいいだけです。
人は思った、あるいは「感じた人間」の感覚は大事だと思います。
人が一人で全ての物象を判断するのは難しいことですが「評価」というものは他人が決める、というのは正しいと思います。(公正の立場でというのは当然ですが、念のため・・)
「性善説」「性悪説」どちらも基本的に判断は自由なのだと、いつも思っています。
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