秋のゆるやかに流れる風に吹かれ、ふと思い出したことがあります。
自分は小さな頃から、祖父母や両親から厳しくも大らかに育てられたと思います。
厳しく、とは道徳倫理について 人として「守らなければならない規律」についてです。
小学生の時は書道を少しと、水泳と剣道を6年間学びました。
小学4年生ぐらいにメキシコのルチャ・リブレというプロレスを自己流で真似て兄や友人と共に技を掛け合いながらよく練習をしました。
小学5年生の頃に、TV再放送によるブルース・リーブームが流行り、Gメン75という番組で倉田保昭さんの対「香港空手」シリーズが人気でした。
そして一つ年上の兄が先ず空手を学び始めました(しかも同時に二つの流派)熱心な兄は家に帰ってきて その日に教わったことのおさらいに自分を着き合わせて練習しました。そのおかげで自分も技を覚えられたので非常に良かったです。
自分は小学生の時のお小遣いでは空手も習いに行けず、本屋で松田隆智さんや蘇東成さんや佐藤金兵衛さんの本を立ち読みしながら見て技を覚え 庭や近くの大きな西河原公園で独習をしました。
当時は独学でも、馬歩とか弓歩での拳、蹴り技だけの素朴な練習ばかりしていたので、後になって悪い癖もつかず良かったなと思いました(かえって集中力は高くなったと思います)
中学生になった時の我が家の家計は大変で、その頃はどこの家もそうでしたが経済的にも余裕のある裕福な家庭というのはとても少なかったです。
生まれ育った町、当時の狛江の環境は「三丁目の夕日」の光景とよく似ていました。
ならば自分でと、仕方なくまたまた兄と共に新聞配達のアルバイトをさせてくれる、というので始めました。
月に1回の休刊日以外に休みは無く、朝は早起きの習慣が身について 多摩川住宅という団地を10棟、1~5階までを階段の昇り降りを毎日毎日繰り返しました。
その給料で初めて武術を習う資金を自分で手に入れました、13歳の頃です。
そして初めは本で見た中国拳法の道場を尋ねました。
しかし会費が高く払えないので挫折しました、その他いろいろな道場を見学や体験に回りました。
そしていいところがないかな、と思っていたら兄が太極拳をやっているところがある、と発見し習いに行き始めました。
そこで自分も一緒に着いて行き学び始めたのです。
ここでは大勢で24式太極拳をやっておりましたが、身体が求める力の中では、何か物足りないなぁと感じていたところに北京へ短期学習団(当時は個人ビザがまだ降りにくかった)で習って来た人が「武術基本功」をやらされて辛かった、といって一人だと辛いから一緒にやろうと声をかけてくれました。
自分にとってはそれがとても楽しくて、習ったことを毎日、新聞配達が終わってから公園で練習をしました。
その頃の情報源は「月刊空手道」の武術関連記事でした。
そのうち「武術 うーしゅう」という中国武術の専門雑誌の創刊号が出て、季刊ながら毎回いつも楽しみにしていました。
そして大阪で第1回中国武術・太極拳表演大会が行われ、東京都のある団体から参加しました、1984年の6月のことです。
思えば、この大会(全日本選手権の前身)は福昌堂という出版社と東京の太極拳の有志による組織と大阪太極拳協会が中心になってスタートしました。
大会は自分で自選套路を組み出場しました、あの頃は既に大阪や愛知は器械をやっていて自分達より1歩リードしていました。
結果は惨敗、これじゃダメだと直感し やり直しを思いました。(ここではその団体がダメというより練習内容の全てをやり直さなければ、という思いです)
それからまた師を探し始めました。
しかしその第1回大会のことがきっかけでその当時一番日本で勢力があり水準が高い、本家本元の全日本太極拳協会を知り、紹介を受け日本武道館を訪ねたのです(後の全拳協パワーと呼ばれる日本の武術界のトップレベルのメンバーの一員になれたことはとても光栄でした)
この当時では珍しく、素晴らしい中国人老師に学び、仲間達と出会えました。
中でも知的で当時はもう日本語がペラペラだった恩師 杜進老師 馮正宝老師 そのまた師であった徐文忠老師 徐淑貞老師 張品元老師 楊承冰老師 穆秀傑老師 何福星老師 本当に日本において学べたことが幸せでした。
そして1985年の春に訪中学習団に参加させてもらえて上海体育学院の武術隊と武術班を見学し、今でもお世話になっている邱丕相老師・朱多媚老師・孫根発老師に学べたことは非常に大きかったです。
そして上海で学んで戻ってから老師の目に留まり、認められ先輩の皆さんにも、あたたかく仲間として迎えられとても嬉しかったです(当時は上級クラス・初級クラスと分かれ、なかなか上へと認められるチャンスが少なかったのです)
何事もあきらめずに自己投資をする、認められるまで努力をし続ける、ということをここで体得しました。
第2回大会の出場は全日本太極拳協会に移籍しハードな練習をこなし さらに夕刊の新聞配達のアルバイトをもこなし、高校での学業の両立。上海での費用を返すためにもう一つお弁当屋さんでアルバイトをしていたところ、
その過労から来る盲腸炎から腹膜炎になり倒れ、即手術をして一時は生死を彷徨い、1ヶ月間の入院をしました。
この年の大会には出場できませんでしたが、退院してすぐに復帰して練習を開始しました。復帰した時にもやっぱり老師や仲間たちはあたたかく迎えてくれたのです。
85年は6月に大会が終わったので、あの年の夏は朝から晩まで一日中練習をしていました。オリンピックセンターの合宿も皆で花火大会などをしたりしてとても楽しかった思い出です。
学校は学校で楽しかったけれど、好きな武術の楽しさはまた格別でした。
今の自分がやっているスタイルのルーツは実はここにありました。
そこへ本場中国での練習スタイル、有志達で89年に立ち上げた東京武術隊でのいいところ、少林武術中心の胡堅強老師のスタンス、昔武術じゃ食えなくて20代の頃にいた仕事場やフィットネス業界で学んだ良い部分を加え続けて「今の活動」があります。
しかしながら、人生は「いいところ」ばかりではありません。
自分も少年の時にイジメに合いました。それは大人社会に入ってからも「いじめ」はあります。むしろ陰湿になっていきます。それに人に利用され、裏切られ、騙されたこともたくさんあります。
しかし、自分の信念で「自分がされた嫌な事」は絶対にしない。
感じたことの中で、良い事はする、そしてそれを広めるようにしていく。
「人」から「たいせつにされたこと」への感謝の気持ちを忘れない。
これを何を言われようとも続けることも「勇気」だと自分は思うのです。
世の中を見ると、自分にとって思うようにうまくいかない事があったり、気に入らない事があって、がっかりしたことを乗り越えられなくて、
人生の中で取り返しのつかない行動を取るようなことがあちらこちらに見られます。
「人」は「たいせつ」にされた想いを知っていれば、必ず「人」を「たいせつ」にできるものです。
今でも、世が乱れようと、人を信用しにくいことがあっても、これを続けることもまた「勇気」のひとつだとも自分は思います。
今の日本社会ではたくさんの子供達が生まれています。
その小さな子供たちの「瞳」に映る「大人たちの姿」に自信をもって見せられる手本になる姿勢を見せなければならない。
これは、つまり自分が幼い時や、少年時代に感動した存在に学ばなくてはならない。
テレビ番組やマンガやそういったものも大事ですが、実生活の中で感じた事実の素晴らしさがもっともっと大事だと思うことがよくあります。
現実として、人は空想の中に生きているのでなく、リアルタイムでたくさんの人がいる「社会」の中で生きているのです。
「世の中」や「社会」が悪くなるというのは、「良い」と思うものや感覚を多くの大人たちがリアルタイムの生き方の中で放棄したからだ、と感じる時があります。
これからも、自分自身のためにも「自分らしさ」を続ける、多くの人々が未来に希望を失わないためにも「希望」を感じる生き方を、
そして更に「夢」を実現させ続ける生き方を今までのように「武術」を通じて表現し、伝えていこうと思います。