横浜さくらボクシングジムのブログ

横浜さくらボクシングジムのブログ

横浜さくらボクシングジム 会長 平野敏夫 によるブログです。
ジムでの出来事、ボクシングのこと、その他ジャンルを問わず綴っていきます。

 ボクシングシューズの変遷

 

1887年大場政夫とチヤチヤイチオノイとの世界フライ級タイトルマッチが東京国技館で開催された。

試合の序盤、流れが一進一退の中で、大場が不用意に出した左に合わせたチオノイの右は大場の顔面を捉えた、たまらずダウンこの時右足首に体重がかかり捻挫をしてしまった。ダウンは、打撃により脳しんとうを起こしてダウンするため自身をコントロールする事が出来ない、従って場合によっては倒れ方によって捻挫や骨折、後頭部の打撲も有り得るのである。

シューズの話しに戻るが以前ボクシングシューズはロングネックであり靴紐で足首を固定する様に作られていた。

この様なアクシデントに対し,足首を守ためにボクシングシューズが考えられたのである。大場はこの試合、骨折には至らず捻挫止まりで、後半KO勝ちを収めたので有る。

また靴底は、皮革であった。これはフットワークに適していた。今はボクシングスタイルも変わり足を使う選手が少なくなった。ボクシングは足を使うところから学んだ時代には、ファイティング原田氏の様なファイターでも手が出てない時は、絶えずフットワークを絶やさなかった。時代と共にボクシングスタイルや概念も変化した。

近年のシューズは、ゴム底が主流となり、製品によっては、フットワークを使うとブレーキがかかり過ぎる事もある。

革底の時代はリングをチェックして滑る様だと靴底に挟みで傷をつけ滑らない様工夫して対応した。また靴底にテーピングのテープを張りリングに上がる前に外して松ヤニをつけて滑り止めにしたものである。

リング下に、今でも松ヤニを置いてあるのは,革底シューズの為の滑り止めと知ってる人がどの位いるであろうか、革底シューズの滑り止め処置ができるセコンドがどの位いるであろうかとも思う。

 

今 ボクシングシューズは、そのほとんど、靴底は合成ゴム、甲の部分は化繊でネックはタイソンの時代から短シューズが主流となった。そしてボクシングシューズの機能よりデザイン重視をして選ぶボクサーが多くなった。

 裂傷の処置

 

ボクシングは直接対戦相手にパンチを当てる競技である。

従ってパンチによる裂傷やバッティングによる傷は避けられないものとして位置付けられている。

以前のトレーナー、セコンドは傷の対応や処置にも長けていた。

 

バッテングやパンチによりカットした場合以下の手順で処置した。

1、脱脂綿による傷の消毒

2、テーピングテープを蝶の形に

切り込みを入れる。

3、開いた傷を閉じる

4、閉じた傷を開かないように蝶

🦋の形に切ったテープを傷口

の上にはる。

  何ヶ所貼るかは傷の大きさにより

  判断した。

5、この時、蝶の形の1番細い部分を

傷の場所に当て傷を塞がない

様にする。局部の通気性を良

くする為である。

6、バイ菌が入らない様にガーゼ

を乗せて固定する

7、後は自然治癒をまつ、瘡蓋が出来

  ればバイ菌が入らないので消毒し  

  ないでガーゼ交換だけですむ。

8、深い裂傷の場合は、医師に縫合し

  て貰うがその判断はトレーナーが

  きめていた。

これらがジム内での裂傷対応または処置であった。

以上の手当てをトレーナーがした時代があったが現在は、治療具も新しい物が出来て方法が変わって来た。また医者に駆け込むのが主流となった?

試合での裂傷は、ドクター対応で縫合してもらった時代があったが

いまは、試合の際は現場でコミッションドクターによる応急処置で、縫合は病院に行ってする事になっている。

 

この他にゆで卵を作っ時に卵の殻との間に出来る薄い皮膜を、傷の上に貼る方法もあった。皮膜が乾くと傷口がせばまり綺麗になるとか、皮膜がばい菌をブロックするなどと言われ利用された時期があったが迅速性にかける為、利用頻度は少なかった。但しこの方法が適正な対応だったかは、不明である。

今なら、これらは医療行為として認められないのであろう。

 

 日本初の暫定チャンピオン

 

日本で初めて生まれた暫定チャンピョンは、堀内稔斉田ジム所属で有る。佐藤仁徳が返上した日本ウエルター級チャンピオンの座を1位の堀内稔(斉田ジム所属)と2位の名嘉原誠(横浜さくらジム所属)が王座決定戦で、日本初の不名誉な暫定王者が誕生しのである。

 

堀内は名嘉原の倍以上もある戦績からして優位と思われていた。

名嘉原誠は鶴見工業高校のボクシング部に入ったが部内に不祥事が有り廃部となった為ボクシングができなく成ったのが理由で横浜さくらジムでプロボクシングの道を決めた。高校卒業後はプロになり新人戦出場資格を得て新人戦ウエルター級にエントリー、新人王にはなれなかったが4勝してB級の資格を得た。

ラッキーな事に、ミドル級で新人王に成った相手から体重を落とし契約ウエイトで6回戦の試合を申し込んできた。スーパーウエルターの契約ウエイトでの試合に名嘉原誠が勝利した。

新人王に勝ってミドル級の上位にランクインしたのである。その後ウエルター級で試合をしてウエルター級に転級した。当時のチャンピオン佐藤仁徳は 世界戦を待つ、不動の日本タイトルホルダーであった。名嘉原誠にチャンピオンからのオファーは断る事を言付けてあった。但し指名試合は別とも。

 佐藤仁徳が日本タイトルを返上した。

1位の堀内2位の名嘉原との王座決定戦が決まった。キャリア、戦績からして堀内有利は、揺るがなかった。

試合は、名嘉原誠前半戦の負傷、目の上をカットしてドローの判定が下り再戦となった。

数日して、スポーツ競技では有ってはならない事件が起こった。その判定がパンチによるものとして処理され、堀内が勝者として判定が覆った。一旦下された判定がくっがえった例は、少なくともこれまで日本国内では例がなく、JBCのルールにもある様に、リング内の最高権限者はレフリーでありその判定には従わなければならない。にも関わらずである。

私の、ビデオ提出を含む猛抗議に、JBCは堀内を苦し紛れに日本で初めて暫定チャンピオンとした。

前回と同じ条件でダイレクトのタイトルマッチをする事を条件に私は混乱を避ける為それを認めた。本来はダイレクトのリターンマッチは禁止されている。

ファイターの堀内に対しファイターの名嘉原誠、、わたしは、名嘉原にアウトボクシングを指示して、作戦を立てた。

前半足が使えるところまで行くこと、捕まったら本来のファイターで戦う

これが成功した。大方のを予想をくつ返しチャンプとなったが、堀内は暫定が外れていつのまにか第23代のチャンピオンとなっている。

名嘉原は、その試合に勝ってチャンピオンと月間最優秀賞を受けた。

私達は、暫定チャンピョンのボクサー堀内稔と、裏で暗躍して、判定を覆した人物に勝ったので有ると思っている。

現在では、暫定とはその様な位置付けのタイトルでありタイトル増産の一翼を担っている。

今のところ、日本ではないが世界では暫定タイトルをかけた試合も開催される様になった。

日本のボクシング界は、暫定という最悪のシナリオを書くスタートを切ったのである。(後に軽量級で暫定チャンピオンがうまれた。理由は不明)

当日のJBC故小島事務局長は多くの功績を残した方であったが、唯一の汚点だったかも知れない。

 

      夢と消えた世界タイトル

 

 1982年.2月28日韓国ソウル文化体育館でWBA世界フェザー級タイトルマッチ前哨戦が開催された。

プロモーターは、輪島功一と激戦を闘った柳崔斗のマネージャーとして来日した姜尊雲。

姜さんは、日本生まれでは無いが流暢な日本語を喋る親日家で立ち振る舞いは、韓国人とは思え無い方でした。

WBAフェザー級7位の金は前哨戦に勝利してアルゼンチンのブエノスアイレスで世界タイトルマッチに挑戦する事になっていた。

対戦相手の桑原邦吉は京浜川崎ジム所属の日本ランカー。

練習中の、桑原を呼んだ、韓国からフェザー級の世界ランカーが試合をしないかとオファーが入ったどうする。

試合はやってみないと分からないが勝つ気持ちがなけれは断る。

当時韓国のボクシングは、コリアンファイターと称され,そのファイトぶりは、韓国のボクシングの隆盛を象徴するものであった。

日本人ボクサーの多くはその餌食になっていた。

桑原はこの試合にかけると、意気込んだ。相手が世界ランカーであった事と、結婚を前提とした女性がいてアルバイト生活も限界に来ていたのである。

私のハードトレーニングに耐えてソウル文化体育館のリングに上がった。当時の韓国のボクシング人気は、日本のそれとは比較にならない超満員の観客の中でゴングは鳴った。

試合巧者の金はアマから転向しただけあってラウンドが進むに従ってうまさが 目立つ、桑原も硬さが取れて異国のリングで何時もの動きを見せた。

ラウンドも後半の7ラウンドに入って間も無くサウスポーの金は不用意な左を出したところに、桑原は合わせて得意な左フックが決まった。

金はダメージが大きくよろめきながらタタラを踏んだ。韓国のレフリーは金選手からスタンディングダウンを取りたく無い、取れば2ポイントの差がつく、この場面では逆でスタンディングダウンを取って休ませた方が、アマのキャリアが多くその後の処理が金なら出来たであろう。

桑原はこのチャンスを、逃さなかった。ダメージのある金にたいして右ストレートから入り左フック右ストレートとパンチを立て続けに打ち込み、金は反応の無いまま前のめりにダウンして立ち上がることはなかった。

あれほど騒がしかった場内が静まり返った。桑原がKO勝ちした事よりもその無気味さの方が先に立ち別の何かが起きるのでは無いかと緊張したのを思い出す。

翌日、姜プロモーターと一緒に、KBCにお礼の挨拶に出向いた。

姜さんは世界前哨戦後の世界タイトルをマッチメークをしていた。

彼に敗者となった金に代わり桑原をそのままそのカードに入れることを頼んだ。

姜さんは、KBCの国際部長にたのんで英文の契約書を作成サインした。世界チャンピオンは、アルゼンチンのブエノスアイレス、当時の交通事情からして2日がかりの移動である。

金浦国際空港から成田への空路は、その話題で持ちきりとなった。翌月桑原はWBA世界フェザー級7位にランクインしてますます気運は高まっていた。

 

ここまでは韓国遠征に掛けた桑原の運はきっと最高のものであつたであろう。

時としてイギリスどアルゼンチンのフォークランド紛争が勃発した。

心配事は現実になった、戦争になればボクシングの試合どころではない。

 

最悪のシナリオ、世界タイトルマッチは戦争で、夢と化したので有る。

「ガゼット」の座談会

 

 戦前、荻野貞行監修の「拳闘ガゼット」という冊子があつた、戦後に「ボクシングガゼット」と名称を変更して戦後のボクシングニュースを発信した。

ベースボールマガジン社のプロレス&ボクシングが、分離してボクシングマガジンが創刊された後、同社に吸収合併されたが、ボクシングマガジンの中に2ページのガゼットコーナーを設け、ボクシングをこよなく愛した2人のボクシングライター、郡司信男とリングサイドマザー松永喜久がコーナーを主催し、レギラーに加え、毎回ゲストを招き、ボクシング界のよもやま話を発信し続けた。

 

参加者が自由に話せる 穏やかな座談会で、ボクシングの昔、今、これからを話し、日本のボクシング最盛期を生き、戦後のボクシング界の良き時代を見聞きして過ごしたお2人は、天国で今のボクシング界をどの様な思いで観ているのであろうか。

私も独立前、独立後と何度かガゼットコーナーにゲストとして声をかけて頂いた。

私がお二人に接した当時は既にご高齢で最後にゲストで出席させて頂いた時には、松永さんが郡司さんに其々を紹介するまでに成られており、それでもお二人のボクシング愛は、失せる事なくガゼットのページを閉じるまで取材と執筆を続けられた。最後の最後まで。

お二人は、ボクシングに対する考え方がボクサーファーストであり、とても選手を可愛がった。

私にとってボクシングに対する考え方の師であり勉強をさせて頂いたお2人に、合掌。

 

余談。松永喜久女子は、女子ボクシングには眉をひそめていた。