横浜さくらボクシングジムのブログ

横浜さくらボクシングジムのブログ

横浜さくらボクシングジム 会長 平野敏夫 によるブログです。
ジムでの出来事、ボクシングのこと、その他ジャンルを問わず綴っていきます。

JBCの判定にクレーム

 

阿野敏充vsマーク堀越

私こがプロボクシングに関わって初めてJBCの判定にクレームつけ,ジャッジペーパーの開示を求めてコミッション席に詰め寄った事がある。その試合がマーク堀越と阿野敏充の10回戦であった。

マーク堀越は新人王に成りKO率も高く八戸帝拳所属、後に高橋直人と年間最高試合を戦ったボクサーで有る。

マッチメーク時、私は必ず選手の確認をとってカードを組む。まだジムがマッチメークしたものを選手に与える時代であった。

阿野に伝えた。マークは、阿野程のスピードボクサーと戦った事がない事。パンチ力を主武器としたファイターである、阿野のリードパンチを生かしたボクシングをすればそれを封じる事ができること。阿野は京浜川崎ジムの中ではアウトボクシングが出来る数少ない選手の1人で有った。

試合内容は、ラウンドの殆どをコントロールして戦った。

ジャブと左ストレートを駆使してアウトボクシングに徹したので有る。後半に入って3ラウンド程度捕まった場面はあったがそれでも苦しい場面を凌いでアウトに徹したので有る。

判定の結果、このボクシング内容で敗者となった。

終了後、私は選手を他のセコンドに任せコミッション席に行ってジャッジペーパーの開示を求めた。

左ストレートがポイントになってないので有る。サウスポーの左はポイントになってオーソドックスの左はポイントにならない。不可思議な採点で有った。

アウトボクシングに徹することが出来たのは、リードパンチの効果が有っての事で有る。

 

阿野には、判定で敗者となったが、私はお前が勝っていると伝えた。

 

2020年6月29日辛く悲しい手紙

2020年6月29日 私のところに辛く悲しい手紙が届いた。新型ウィルスのコロナ禍で世界中がその対応に苦戦している時である。菅原秀丸、67歳 5月癌でこの世を去ったとの訃報である。

娘さんで長女の千の風と書いて、チカゼさんからの手紙が届いた。

遺品の中に川崎でボクシングをやってた頃の、写真などが見つかったそうだ。

千風さんに手紙を書いた。

 

菅原秀丸を知る人は、少なくなったのは事実です。当時を話せるのは、私だけになりました。秀丸は京浜川崎ボクシングジムの歴史からすると、まだ創世記の頃で先輩には、内田達郎、アラブ・スガ(本名)菅原静男、岩切一行、本間栄、その後世代では上原悟などがいました。当時はボクシング界が一番の全盛期でジムにも多くのプロボクサーが所属して居ました。

川崎は、京浜工業地帯でその多くが地方出身者でした。ボクシングに夢を持って青春時代を過ごし、千風さんの書かれてる通りお父さんの生きた証はここにも有りました。時は流れます。当時の仲間も高齢になりました。

京浜川崎ジムの会長故吉川昭治も天国へ旅立って久しいです。奥さんの「としこ」さんはご健在です。

私は当時京浜川崎ボクシングジムでトレーナーをしていましたが、現在は独立して横浜さくらボクシングジムを経営しています。

菅原秀丸は、秋田から上京して日本鋼管でサッカー部に所属していましたが、団体競技では個人がいくら頑張っても報われ無いと、個人競技のボクシングに切り替えた理由を話したのを記憶してます。

お父さんはまだ私の中では秀丸ですが、お父さんはサッカーの優秀な選手であっただけにとてもスピードがあり、私の指導したボクサーの中では一番のスピード出世でした。ゼロからスタートして、半年でプロテストに合格したのは秀丸だけでした。

更にお父さんのパンチ力は素晴らしく、とても良いタイミングでパンチを打ってました。サウスポーでまだプロテストに合格してない時でしたがスパーリングで(本当に打ち合うトレーニングです)プロボクサーの4回戦からダウンを取るほどの優れたボクサーの1人でした。

その後キャリアは少ないながらも東日本新人王にまで登りつめました。全日本では残念ながら敗者とはなりましたが、その後数戦して、家を継ぐ、もしくは結婚のため、どちらか覚えてませんが秋田へ帰省しました。

その後ジムを移籍して秋田?で1戦若しくは2戦、、試合をしたとの話は聞いたことがあります。当時の吉川会長が秋田に行った時に菅原秀丸とあったとの話を聞きましたが、その後は、連絡を取る事はなくなりました。

でも千風さんが、おっしやる通り私にとっての秀丸、千風さんのお父さんの、若かりし頃の思い出、青春の1ページを過ごした証は川崎にあります。それはとても思い入れの多い場所で、ボクシングに関わった時間やリングの中から多くの事を学び、沢山の宝物を得て秋田に帰省、それからも折に触れそれらを糧にして、家庭を守り天国へ旅立ったと思います。

今は川崎も都会になってしまいましたが当時の川崎はまだ工場がたくさんあり今とは異なる風景でした。

でもお父さんの仕事場であった日本鋼管の本社ビルは多分今もそのままあると思います。京浜川崎ジムも建て替えることなく、ほぼ秀丸時代と同じ昭和のままのジムとして今も存在しています。

時間がありましたらどうぞ遊びに来てください。お父さんの思い出の場所へ。

           合掌

 

リングサイドクラブ

 以前ボクシングファンが集まって作った「リングサイドクラブ」という任意団体の組織が存在していた。いつ生まれて、いつ解散したのか定かではない。日本が敗戦のダメージから抜け出し、経済成長を遂げ落ち着きを取り戻した時期、ボクシング人気が最高と言われた昭和の時代、それぞれが後楽園ホールのボクシング興行を観戦できる、年間契約のボックスシートを所有し,

後楽園ホールに足を運びボクシング観戦を楽しんだ。

其れがいつの間にか、「リングサイドクラブ」と称してボクサーの、応援をする様になった。

仲間同士で賭けを楽しんでいたとも聞いた。

好試合を戦った選手には「リングサイドクラブ賞」が贈られた時期も有った。

但し、選手にとっては名誉な事で有るには違いないが、お互いダメージの残るハードな試合が好まれたので、トレーナーや会長からは、たしなめられたものだ。

リングサイドクラブのメンバーは、好試合が有れば、地方にも出向き、日本選手の世界戦には海外にまでも足を延ばした。その良き時代、リングサイドクラブのメンバーは、ボクシング観戦と言う道楽を満喫したに違いない。

「リングサイドクラブ」の存在を知るジム関係者も少なくなった。

リングサイドクラブのボクシング界における貢献度は大きいものがあった。

その1つに先に述べたがギャンブルと関係があった。

ギャンブル対象とするからには勝敗に非常に敏感になりレフリーやジャッジにも影響を与えた。

未熟なレフェリーやジャッジついて忖度が生じたものは烈火の如く物申したし、その役割はレフリー、ジャッジにも緊張感が漂いボクシングをする上でとても価値のある存在となった。

そして何よりもごひいきのボクサーを可愛がった。リングサイドのメンバーは後楽園ホールの西側に集まりテレビに映る場所には座する事はなかったが、

我々ボクシング関係者にとってかけがえのない存在「リングサイドクラブ」であった。

東日本ボクシング協会内部で法人化

 日本プロボクシング協会は、みなし法人であり社会的には、責任所在が確定しない団体である。

1980年代末から1990年代初頭、神奈川県内のジムが集まった「神奈川拳友会」と言うグループが存在していた。主な活動は月一度持ち回りで会合を開き親交を深め、意見交換、乗り興行、冠婚葬祭など神奈川拳友会として対応、ゲストを招いて話を聞くなどが会としての活動であった。

ノリ興行「横濱拳闘劇場」シリーズでは、のちに世界チャンピョンになった故星野敬太郎、日本チャンピオンになつた名嘉原誠もこのシリーズでメインを務めた。

ある時、ゲストに故金平正紀会長を招待した。金平会長はこれだけのメンバーがいるので有ればと、法人化をする事を提案した。そして法人化する事で、どんな事が出来るかを話した。

その内容は夢が膨らむものだった。ボクシング界の発展のためにはとも付け加えた。

神奈川拳友会は、株式会社として、各ジム持ち株会社として立ち上げ登記した。

色々な構想の中、これからと言う時、メンバーの中心的な人物の1人が世間を騒がす刑事事件を起こした。株式会社神奈川拳友会は、その活動を一度もする事なく解散を余儀無くされた。

ボクシング界に新しい風を起こす事は叶わなかった。

神奈川拳友会は、株式会社解散のあと神奈川拳志会と名称を変えて拳友会とは様子を変えて存在する。

あの時、金平正紀の提唱した法人化がそのまま活動をしていればボクシング界を牽引する大きな力となり、今あるボクシング界とは異なった発展的ボクシング界が存在していたかもしれない残念な事である。

 

時が移り

輪島協会長の時代のこと、中間法人と言う公益法人に移行可能な法人があった。手続きが簡素で我々が進めていた法人化には都合がよく弁護士に依頼してその実現は目前にあった。

が、既得権を失うとしたジムが猛反対をしてその計画は頓挫した。そして更に時が移り今ボクシング界は未曾有の危機に直面している。2021年コロナ禍はそれに追い討ちをかけている。

試合巧者の田中恒成が井岡一翔に何故負けたか。

 

試合巧者の田中が井岡になぜ負けたか。を検証する。

ボクシングには、KO勝ちがある。井岡はKOだから勝てたと言うべきであろう。ボクシングの面白さで有り醍醐味でもある。

ボクシングの流れ試合運びは、田中恒成で有った。ボクシング関係者の評価する所である。

ジャブ、左ストレートで井岡をコントロールして右に繋ぐ、パンチの組み立ても申し分無い。動きも悪くない。

最初のダウンシーンを再現して見るとジャブから左をヒットさせ更に右をヒットさせている。この場面で、このヒットをチャンスと見た田中は攻めに出た。当然の攻撃であった。

(ボクシングの身体能力には筋力やスピード、スタミナなどに加えて他のスポーツには無い打たれ強さがある。両者の戦歴を見てみると井岡に比べて田中が劣るのがわかる)

この場面で井岡に与えたダメージがあったと田中は感触を得たが、井岡にとってはダメージが少なかった。現場で見てないのではっきりとは言えないが井岡が高度なテクニックでこれを殺していたとも考えられるが。

にもかからず、田中はチャンスと見て攻め込んだ結果は、距離を(ボクシングでは間合いと言います)誤ってしまった。

井岡の間合いに入ってしまった。左のフックはその結果であろう。

試合序盤リードパンチ左の刺し合いでは田中が優っていた。井岡はガードをあげオフェンス先行、村田亮太のスタイルにした、現場で戦略変更をしたとも考えられる。

2度目のダウンは田中にとっては倒さないと勝てないとの思いが更に強くなり、再度間合いを誤ってしまった。勝ちたい、ダウンを取り返さないとの思いはボクサーの性(さが)であろう。同じタイミングのパンチを受けてしまった。ダウンの前には最初の場面と同じ攻め込んでの場面があった。

ボクシングは真剣勝負、試合巧者が必ず勝つとは限らないのが面白く、ボクシングの魅力がここにもある。

田中恒成の復活を多くのボクシングファンが期待して待ち望んでいる。好試合であった。