本日の記事には“ ドン引き警報 ” 発令中。気をつけてね。




明日からもう6月。早い、早すぎるわ。。


でも時間や時代の流れに 必死になってついてゆかないほうが


年をとらない気がするのは気のせい?




twitterで口蹄病の記事を読んで牛たちが殺処分をされていることに対し


過剰に動揺している自分に気づき 思い出したことがあります。




4,5歳のころ わたしは一人でお庭で遊んでいることが多かったのです。


アサガオを押し花にしたり お花を絞って布を染めたり 虫を観察したり 


虫眼鏡で太陽の光を集めて紙を焦がしたり・・・。


(太陽が驚くような速さで紙を燃やすのにはいつも驚いたものです)




そんなある夏の日のことなのですが 


突然わたしはアリを大虐殺することに すごい情熱を燃やしたのです。




アリの巣に水を流し込んだり 足で踏みつぶしたり バケツの水の中に落としたり


ちょっと今書くのも辛い気分ですが


とりつかれたようにいろんな殺戮方法を試したのです。


その翌日もまた アリをたくさん殺しました。




そして急に 本当にある瞬間突然にという感じで


そのことに嫌悪感を感じ 自分のしたことの意味を理解したのです。




暴力はある意味快感とも似たフィーリングを生みます。


間違ったものですがパワーを感じることができますし


何らかの神経伝達物質(アドレナリンなど)が快感を感じさせるのでしょう。




その学びを誰にも止められることなく体験したので 


自分の小さな快楽と引き換えに 暴力という行為が 受けた者に対し何をもたらすのか


その恐れ 悲しみ みじめさ なども同時に学ぶことができました。




(わかっていながら誰かを深く傷つけるような言葉をいう人も同じです。


そのことで何らかの快感を得ているために それを止めることができないのです。)




わたしは実際にアリの大殺戮者になることで


暴力 支配 残虐性 誤ったパワーの使い方 などについて学びました。




その時から今に至るまで 


わたしは殺生というものにに強い痛みを感じてしまうようになりました。


ごく小さな虫を払いのけようとした時にうっかり死なせてしまっても 


胸が痛むようになってしまったのです。




また どのような状況であっても「支配」ということから自由でいる選択をしています。


それはあの時にたくさんの 本当にたくさんのアリを殺したことで学んだ事だと思います。




自分にも恐れや悲しみなどを感じる意識があるように


すべてのものに意識があるのだということを 今ははっきりとわかっています。




もちろんそんなことしないほうがよかったのに決まっていますが


もし 「そんな残酷なことをしてはいけません」と


すぐに止められていたなら このことは学べなかったと思うのです。




そんな経験から


戦争や殺人事件のニュースをみれば そのことを通じて当事者の方々は


暴力や支配について学んでいるのだと思うようになりました。


(止めるなという意味では断じてありません)




ガイドが繰り返しわたしに伝えてくれたことで


「ものごとを良い悪いではなく 学びという視点から見なさい」


というのがあります。




わたしたちは創造主から100%の自由を与えられて そこから学ぶことができます。




この草は残して この草は抜いてしまおう


そんな事を思う自分はヒットラーとまったく同じなのではないだろうか?


そんなふうに思えて草むしりもままならないわたしは


ちょっとバランスを欠いた過敏さで殺生に反応してしまうところがあるのかもしれません。


それもあの幼い日に アリを大虐殺したことが原因なのです。




でも幼い時に徹底的に体験したことで それ以降学ぶ必要がなくなり


誰かを傷つける、ということを学ぶ必要もなくなりました。


わたしはそれでよかったと思っています。




誰かを非難する前に このことからこの人は何を学んでいるのだろうか?


自分は何を学ぶことができるだろうか?


そんな視点を持つことができたら、と思っています。




幼い子供をお持ちのお母さまは 


慌てていろんなことを教え込もうとするのではなく


「していることにはすべて意味があるのだ」


「このことを通じて何を学ぼうとしているのだろう?」という視点を持って 


お子さんを見てあげてほしいのです。




加害者になったり被害者になったりすることを通じて


わたしたちは 全体 ということの概念を学んでいるのだと思います。









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