昨晩、『Canta! Timor』というドキュメンタリー映画を見た。
土着の信仰とキリスト教の信仰が入り混じり、同居をしている世界。
自然に神々が宿っていることを信じ、それらを敬いながら、生活をする・・・
どことなく遠い昔の日本を思わせる、わたしが物語世界で見たような世界が、
現にあることを知った。
老いたひとが若返るということの意味も、すこしわかったような気がする。
かれらの目にも、自分たちとは異なる世代に生きる、異なる経験をしている子どもたちの目から放たれるのと同じくらいの輝きがあった。
またこの国と自分も必ずしも無縁ではなかった。
現にこうして、東ティモールのコーヒーを飲んている。
日本がかつて、この国の独立を阻む軍の後ろ盾となり、資金的な援助していたこと、
それとは逆に、独立後はこの国との協力関係にあること・・・
こんな矛盾した日本の態度は、かれらにの目になんて皮肉に映ったことだろう。
自分と異なる他者と関係をむすぶとき、
ひとは、政治的な利害関係をぬきにして、
付き合うことってほんとうにできるのだろうか。
独立までの険しい途上で、愛する家族、大切なひとたちを失うという大きなを犠牲を払った。
そうした国に生き残ったかれらには、従妹や姪、甥などといった言葉はないという。
共同体に住む皆が、こどもたちのいわば親たちなのであって、
だれだれの子・・・とかいう概念は不必要なのだ。
だから皆自分を生んだ親、そして自然を含め、「わたしの母たち」という複数形をつかって話している。
いっぽう日本では、こうした言葉の用い方をするひとたちはごくわずかだろう。
ひとが、ある場所で生きるということが一体どういうことなのか。
しがらみとは別の意味で、
ひととひととの密な結びつきがある、あの国には
ひとが一人生きているという感覚を表す「孤独」という言葉はあるのか・・・
そんな疑問をわたしに抱かせた一晩だった。
ふだんミルクと砂糖を入れるわたしも、ブラックでいただけたほど、
東ティモールのコーヒーは、とてもやさしくて深い味がした。