第十七 雪渓の非熊。(1/2)
ここにまた、梅津の嘉門は母と共に世の中を避けて、和州(大和)河州(河内)の境、金剛水越峠の谷化陰に、みすぼらしい庵を建て、この山は薬草が多く、さらに金山で金剛砂(こんごうしゃ・ざくろ石を粉末にしたもの。ダイヤモンドに次いで硬く、研磨剤に用いる)を出すので、こられを採って日々の生活費に代えて、自ら薪を切り水を汲んで、明けても暮れても老母に尽くして、ひまがあれば書籍を友にして臥龍先生の跡を追って、禅の、俗気を離れた味わいを受け入れて大道国師の道のあとを追い、現世での名誉と利益に屈しない志は、はるかに尊くみえた。
ある日老母は山寺に詣でたが、ちょうどそのころは厳冬の時期なので、帰路に向かっていると雪が降りだし、見る見る地面いっぱいに玉が生え広がったようで、通り慣れた道筋も、深く雪に隠れたので、いつのまにか道に迷い、ことさら嶺(みね)を越してくる吹雪は、肌にしみて寒いので、進むのが困難で杖を留めて、しばらく佇(たたず)んでいたその時、猟師に追い出された穴の熊なのか、雪を蹴立てて走って来て、ちょうど老婆に飛び掛かろうとした処に、一人の若者か木陰をり走り出て熊の肩さきを一刀斬りつけると、熊は怒り狂ったが、ついに足を踏み外して、谷底に逆さまになって落ちていった。
その若者は腰をかがめて老母に向かい「年老いたあなたの身で、雪の中を歩くのは見ていられない。どこであれ御家まで背負って行きましょう」と言うと老母はうれし気に、「どこの御方知りませんが、今の危難をすくって下さっただけでなく、情け深い御気持ちは話す言葉もありません」と言えば「そのように深い言葉をいただく理由はありません。さあさあ」と、背中向けて老母を背負い、住居の方を聞きながら走って行った。
さて嘉門は一人家に居て、母の帰りが遅いのを心配して、ことさら突然の大雪なので、途中さぞ心細いだろうと気が気でなく、蓑笠を着て庵を出て、母の帰路を目指して急いだが、向こうの方より老婆が、若い男に背負われて来て、嘉門をみて喜ぶので、嘉門はようやく気持ちが落ち着き「お迎えの為ここまで参りました」と言うと、老母は若者の背から降りて立ち「途中で荒熊に出会い、もう少しで一命を失う処を、この御方の情けで危急を逃れて、それだけでなく、ここまで背負っていただきました」と話すと、嘉門は若者に向かい「母をいたわっていただいた御奉仕、感謝尽くしがたい」と述べた。
その時、若者は雪の中に身を伏せて礼をして「突然で失礼ながらあなたは梅津の嘉門殿ではないでしょうか」と言う、嘉門は答えて「自分はこのこのような深山に住んで、鹿や猿と寝床を一緒にする身なので、名を知る人もないだろうに、どうして私の名を知ったのか、聞きたいものです」と言うと、若者はますます頭を下げて「たとえ泥の中で尾を引きずっていましても、先生の雷名(世間の評判)を誰か知らない者がいるでしょうか。あそこの山寺でこの御老母が先生の母上である事を聞きまして、無理にここまで送ってきましたのも、先生とお会いすること懇願するためです。自分は武士で浪人ですが、なんとかして軍略智謀の優れた人に従って、兵学の一端でも覗き見て知り、家を復興させようと思い立って、師と頼るべき人柄を聞き付けると、この山の谷陰に世の中を避けて住、梅津の嘉門という人、生まれながら知恵が優れ聡明で、軍学に眼を向けて、石黄孫呉*1の奥儀を極め、戦術は多数の人に優れている事、その才能があるという評判はっきりとして、かつて兼好法師の草紙にならって武道徒然草という、兵法の奥儀を記した書物を編集した事を伝え聞いて、わざわざ当国に移り住、どうにかして出会って、兵学の指導を受けて、あの奥儀書も拝見したく思いますが、容易に人に会うことを許さないので、よいつてがないか思っていると、今日ちょうど思いがけず出会いましたのは、まことにこれは師とたのむべき機会がやってきて、天の導きなさる処です。今後御家の下男と思って、薪や水の仕事を命じて、兵術の進退や戦いの後の勝敗、御指導頼みいたします」と頭を低くして謙譲して思い込んだ様子に見えた。
嘉門は感心してほめて言った「まだ若い身でもって、武道の心掛けが深いのは感心だ。どうしてうとましいと思うものか、なにはともあれ、まず私の家にお越しなさい。人がどのように言いはやしているのか知らないが、自分が得た業は林に入って薪を集め谷に下って水をくむだけ、他の事はますます知らない。ことさら武道徒然草とやらいう書物を編集した事などは、根拠のないいつわりである。軍師などとはおこがましい」と言って笑いながら、三人連れ添って谷陰の庵に帰った。
こうして嘉門は家に帰って、老母の衣服を着せ替え濡れた衣類を火にあてて乾かし、様々にいたわる様子を、あの若者は見て、普段の孝行を思いやった。
嘉門は茶を沸かして若者に進めあちこちの話をして、しばらく時間を過ごしたが、ちょうど外で咳きをする声がしたので、人の跡が絶えたこの隠れ家に、何者が来たにかと不審に思っていると、案内を乞うので、物の隙間より覗いてみると、これは一人の武士であった。蓑笠を着て、笠の下に覆面をしているので、顔ははっきりとしないが、遠国の旅人と思しき身なりである。
雪深くうずもれた柴の戸を、トントンとたたき「誰かたのみ申したい。ここをあけて下さい」という声を聴いて老母は出て行って「誰かとおもったら、あなたはこのごろ二度まで来られた侍ですね。今日ちょうど嘉門は家に居ないので、御用には間に合いません。たとえお頼みの筋を嘉門に話して聞かせても、こちらの方にも思う事もあるので、とても受けることが出来ません。
無駄に足を使わないで、はやくお帰りになって下さい。再びいらっしゃっても無駄です」と言って、戸をパッタリ閉じてなかに入った。
嘉門はこれを聞き何者なので、このように素っ気なく母上はあしらいなさるのか、と不審に思い、再び窓の隙間から覗いて見ると、その武士は雪の中に座って「情けないです御老母、嘉門殿が家にいないのであれば、この場所で帰宅を待ちますので、よろしくとりなしを願いします」と言って、帰る様子は見えなかった。
ちょうどその時雪は強く降り、きめ細かくしずしずとあたかも柳絮(りゅうじょ・綿毛を持ったやなぎの種子が綿のように飛び散るもの)が舞うように、鵝毛(がもう・ガチョウの羽毛、白いものやきわめて軽いもののたとえ)が飛ぶのに似ていた。そうでなくても寒気の厳しい谷陰なので、朔風(さくふう・北風)が激しく吹き下ろすので、見る見るその侍の蓑の毛のつららが下がって、鈴の様にカラカラと鳴り、身体は半ば雪中に埋もれて、吹雪は顔にまるで小石を投げつける様になるのを、笠でふせぎ真袖(両袖)ではらい、歯を食いしばって寒気を耐え忍ぶようすで、今にも凍死しする有様である。
嘉門はこのようすを見てますます不思議に思い、なんとも忍耐強い人である。覆面で顔は見えないけれども、身分が低くは見えない侍が、この厳寒を避けようとしない姿、きっと何か思いつめた事があるのだろうと、感嘆していた。
湯(とう)に伊尹(いいん・伝説的な政治家)を得、周(しゅう)に太公望(たいこうぼう・伝説的な名将)をもちいたのも、大将である人が、賢いのを尊敬する志が厚いためである。
すべて国家を治める要点は、賢い臣下にある。賢い臣下を得るのに礼譲(れいじょう・礼儀をつくして謙虚な態度を示すこと)を厚く尽くさなければ出ていって仕えない。
高給を与え金帛(きんぱく・金と絹)を以って招いても、賢人を貴ぶ志のない人に仕える事はないとか。
さてその時嘉門は、母のそば近くにより「あの雪中の旅人は何者ですか、見るのも気の毒な姿です。御心に叶わない者でしたら、理由を言ってお帰しになったらどうです。私が出て追い返しましょうか」と言えば「いやいや、お前はかまってはいけない。あの侍はお前が留守に二度も来て、様々の頼み事、私の心に叶わないので、承知する様子もなく帰したが、また今日も来てお前に会いたいと望んだけれども、仕官させる気持ちがないので、とにかく人に会わせないほうがよいと、以前より思って外出していると偽って帰そうとすると、それならば帰宅を待つと、あのように寒気に苦しむ愚か者、こちらの気持ちを察せず長居をするバカな人、なおさらお前を会わせることはない。あの若者に命じて追い返すのがよい」と若者を近づけて急に言葉をかえて言った 「あなたは先ほど下男と思えと言った言葉によって、申しつける事がある。あの雪中の侍を、あなたの弁舌で以って追い返しなさい、なにを言っても嘉門は外出していると言って、是非とも帰しなさい」と言いつければ、若者は受けて「私の御奉公の手柄はじめに、お手にあまる馬鹿者を、追い返して見せましょう」と言って外の方に出ていって「やあやあ旅人御身いつまで待っても待っていても、主人の嘉門の帰宅するのは、何時になるか分からないので、もし日が暮れたら困難の上の困難になる。とにかく帰りなさい、さあさあと言いながら手を取って、引き立てようとしたが、顔を見て仰天して「あなたは由理之助勝基公ではないですか。この御姿はどうしたのですか」と驚きながらうやうやしく礼をして「管領職の御身を以って、一人の従者も伴わずに、身分の軽そうな御姿、奇妙です」と述べた。
勝基はこの人を、桂之助国知とは見たのだが、一言の答えもなく、ただこぶしを握り歯を噛みしめて、寒さに耐えられない様子であった。
桂之助は気がついて「私は御館(義政公をさしている)の機嫌を損ねて、濱名入道の内々の意向によって、父のおしかりを受けた身なので、御言葉をいただけないのも、道理です。このような大雪にも避けることなく、自からこの家に御出でになったのを察して思うのは、嘉門を軍師に召し抱える計画だと思います。私も今日ちょうどこの山中に来て、心を尽くして嘉門に近づきましたのも、他意はありません。かつて御館が嘉門の編集した、武道徒然草という書を、懇望(こんぼう・熱心に望むこと)しても、彼は深く隠して他人が見る事を許しません。もし厳命をして没収される時があれば、その書を燃やして身を隠すことに決まっていますので、これまでその消息もなかったのです。私はふとこの事を思い出し、なんとか嘉門に誠心を見せて、あの書を得て御館に差し上げますので、それを少しの手柄として、父のおしかりを許す内々の意向をお願いする為です」と話すと、勝基は横目で見て「お前は勝手気ままで罪を犯しながら恥じない奴で、御館の機嫌を損ない、父に叱られた者に、交わす言葉はない」と言うと、桂之助は「本当にその道理です」とその身の罪を後悔して、こうなっては嘉門親子に、勝基殿と打ち明けて味方につけて、せめてもの功績にしようと、心の中で思いながら、打ちし折れて中に入り、ためらいながら老母の前に膝まづいた。
老母は見やいなや「あの馬鹿者はまだ帰らないのか。理由を言ってなぜ帰さないのか、あなたは案外な不調法者だな。そのようにふがいなくて、この家に足を留めて、嘉門を師と頼って、兵法の道筋を理解すること、どうして出来るのか。だいたい下僕を召し使うには、その始めによく警告しないと、まじめに主人に仕えないものだ」と言って、一つの袱紗(ふくさ・絹布)包みを取って散々打ち付けたが、桂之助は少しもを怒る様子はなく「私が宿願成就(しゅくがんじょうじゅ・長期間強く望んでいたものが実現すること)するまでは、どのような辛い目にあっても、この家を出る気はないです。御気に合わないことがあって打ち殺されても仕方がないです。このうえの御情けには、あの雪中の侍に、嘉門殿を御引き会わせ下されて、事の仔細をお聞きして欲しい」と簀の子上に額をつけ、涙ながらに願う様子は、本当に哀れな姿で、思い込んでいると見えた。
☆(訳者の注)
*1 孫呉は孫子と呉子。ともに中国の春秋戦国時代の兵法家。
石黄はヒ素の硫化鉱物であるが人名と思われる。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
梅津嘉門、河内国金剛山に世を避けて清貧をまもり、生涯の無事をねがふ。
【国立国会図書館デジタルコレクション 明19・2 刊行版より】
細川勝基雪中に梅津嘉門をとむかふ。
(次回は盆にふさわしい話になります{訳者})