第十三 霊場の熱闘 (1/2)
そのころ近江の国、石山寺の観音菩薩、結縁(けちえん・仏道に入る縁を結ぶこと)の為、開帳(廚子の扉を開き、ふだんは公開しない秘仏などを一般の人々に拝ませること)であったが、有名な霊場なので、これに詣でに来る人は、男、女、老人、子供が群衆となって、綿々絡釋(めんめんらくえき・絶え間なく続くさま)として行き来が少しも絶えず、本当にこれは行川の流れがとどまらないのに似ていた。
商人達はこの賑わいに乗って、より多くの儲けを得ようと、急いで仮屋を造って、草津鞭(乗馬用のむち)、守山鞦(しりがい・馬の尾にかけるひも)、高宮布、長浜糸、大津針、高島硯(すずり)、武佐墨、水口笠、辻村の鍋のたぐい、玄恵法印(げんえほういん・南北朝時代の天台宗の僧)の庭の訓(おしえ・親が子に教える教訓、様々な産物の名を記述している)に漏れたものまで、各々様々に持ち運んで、山の様に積み上げると、買い手は雲のように集まってきた。
ある所では酒を売る家があり、餅や果物を売る軒下があり、休憩所をつくって茶を売る者もいる。小さい弓の射場を設けて商売する者もいる。あるいは長剣をさすって薬を売り、今流行の歌を歌って金を求めたり、聞いたこともない片輪者(前出、昔は見世物として利用されていた)、見たこともない鳥獣など、奇(あやし)と妖しき物を魅せる所、幻戯(めくらまし)、籠脱(かごぬけ)、刀玉(数本の短刀を空中に投げ上げては手で受け取る曲技)、蜘蛛舞(張り渡した綱の上で、軽業芸を見せるもの)のたぐいや奇妙な術を施す所など、所狭しと立ち並び、笛を吹く音、鼓を打つ声、四方に響いてやかましく、多くの人の耳目を驚かせていた。
この大通りの中に、薦簾(こもすだれ・真菰⦅まこも・草の名。水辺に生える線形の葉は刈り取ってむしろなどに編む⦆で編んだすだれ)を掛け、仮屋を造って、紙でもって張った招碑(まじるし、しょうはい・看板)に、辻談義(道ばたで仏法を説いて喜捨を受けること)露の五郎兵衛尉(つゆのごろうひょうえのじょう)と墨で黒々と書いていて、戸口に掛けていた。
彼の話を聞こうと人が大勢集まっていた。
講師は高い床の上に上がって、書案(書きもの机)の上に拍子木の片方を置いて、せきばらいをまずして、聴聞している人々に向かって「そもそも、よくよく阿弥陀経を考えると、如来は五劫(ごごう・とても長い時間、一劫は43億2000万年という説もある)の間思惟(しゆい・考えること)しなさって、、上は一人より下は婆々嫁々(ばばかか)にいたるまで、残らず救いとると言う、御誓願(せいがん・仏や菩薩が一切衆生を救おうとして立て、必ず成し遂げようと定めた誓い)は、あなたがたや我等まで、ありがたく尊い事ではありませんか。こういうわけで弥陀如来は、寝なさることはさておいて、あぐらをすることもなく、十万里かなたの西方より、こちらの方に伸びあがって、すべての人類が地獄をつくるのを見て、ああと悲しみを感じています。それにより、持国天、多聞天などという一騎当千の四天王に命じて、すべての人類の心の中にある地獄を潰す思案はないか」と、声を見事に張り上げて言いながら、あの拍子木を取って、書案をハッタと打ち鳴らすと、劇場は一斉に鳴動して、笑ったり感心したりする声はしばらく止まなかった。
その隣も同じ系統の小屋の造りで、外の方に美しい少女の身体に、蛇(くちなわ)がまといついた様子を絵に描いている招碑を掲げて出している。
上半身の着物の片方を脱いだ男が戸口に立って、扇を開いて行き来する人を差し招きしながら、声を高く呼んで言った「これこれまじるし(看板)を御覧なさい。そもそもこの女子(おなご)こそ、丹波の国の奥山に住む狩人の子であります。殺生の罪科(つみとが)親の因果が子に報いまして、このように蛇に見込まれ身体にまつわりて離れ去りません。容姿は世の中に優れて美しく生まれつきながら、人のような交わりが出来ない身とはなりました。十のうち一つでも罪障消滅のきっかけとなればと、多くの人々に見せて奉るのです。都においては四条の川原、浪華津(なにわず)にては道頓堀、伊勢の国に行きては白子という観音堂のほとりにて見せて奉りました。ものの報いの恐ろしさはこのようであるのです。前代未聞またと同じ事はありません。自分の家の土産に良い話の種だ、招碑に少しでも偽りがあれば銭は取りません。御覧になった後でこちらへ下さい」と、声がかれるほどに大声で叫ぶと、見物の人々は蟻のように集まって蜂のように群がって、仮屋の中に入り、押し合い圧し合い、ひしめき合ってこれを見る。
この女はとりもなおさず六字南無右衛門の娘楓である。憐れむべき楓は、心にもなく、眉をえがき、唇を染め、頭に花かんざしをさして飾り、色元結(いろもとゆい、いろもとい・髪を結び束ねる紐)を結び、髪のゆいかたも今風にまとめて、阿曾比(あそび・遊女)の様な姿にして、床几の様な物のうえに、紅の毛織の敷物を敷いて尻をかけた姿は、嬋娟(せんけん・容姿のあでやかで美しいさま)とした牡丹花が咲きだしたようで、あたりも輝くように美しかったが、腹、手首、喉首などに、蛇がいくつとなくまといついて、かま首を上げて赤い針のような舌を吐き出し、目をパチパチさせて蠢(うごめ)くさまは、見るだけでも身の毛がそばだつほどであった。
見物の多くの人はなんの遠慮もなく、彼女の顔をすぐそばでじっと見て「世の中にも稀な(美しい)娘なのに、このように妖蛇に見込まれたのは惜しいことではないか。このようにあさましい身となったのを、表立って人を集めて見せるとは。この女はどれほどやりきれなく思っているのだろう。なんて気の毒なことだ」と言えば、傍らの人の言うのは「いやいや、彼女の親めは、さぞかし非義非道を行った悪人であろう。それゆえに親の因果が子に報いて、このようなあさましい身となったのだろう。そのような悪い者が生んだ子なので、彼女もまた姿が美しくても、心はさぞ歪んでいるのだろう。世の中の人の良い戒(いましめ)だ。このように人々に顔をさらさせるのは、かえって彼女の罪科が消える手がかりである。憐れむべきことではない。みんなよく見てやってくれ」など口々に言うのをききながら、人々に顔を見つめられる楓の苦しさは、どれほどであるかおしはかって思うべきである。
そもそも石山寺は石光山と称し、天平勝宝六年(754年)の草創である。聖武天皇の朝廷の時代、僧正良弁は如意輪観自在菩薩の高さ六尺(180cmほど)の尊像を安置した、一千有余年を経た霊場である。後ろは連峰が峨々(がが・山などの険しくそびえ立つさま)としていて、岩間、笠取、醍醐に連なって、前は勢田川の流れが淼淼(びょうびょう・水面が果てしなく広がっているさま)として、湖水に続いている。まさにこの地の月を賛美して、近江八景の一つとするのも、もっともである。
さてこの御寺の門前に、一人の浪人が、深編笠に顔を隠し、小鼓を打ちながら「月にはつらき小倉山その名は隠れざりけり(【七十一番職人歌合】48番)」と、くせ舞々の歌を歌い物を求める様子である。
(原著者の注)くせ舞々*1と言うのは古く文明(1469年~1487年)の職人尽に見えている。
往来する多くの人の中に、年の頃十六七と思しく、容姿が優れて美しい娘が、田舎風の粗末な染め方とは見えるが、紅の濃い染めの梅の小枝に、春霞立田の山の鶯*2という文字を縹(はなだ・明度が高い薄青色)に染め出した木綿の振袖を着て、着物の裾を持ち上げて、笈摺(おいずる*3)をかけ、手覆い(手の甲を覆う布、手甲)、脛布(はばき・脛に巻きつける服装品、脚絆)、草鞋をはいて、菅(すげ)の小笠を持って、巡礼の旅人に見える女は、あの浪人の側に近づいて「ほんとにまあ優雅な鼓の音です」と言いながらしばらくたたずんだ。
その浪人は編み笠ごしに、この女をよくよく見て「なんとも気がかりだ。そなたは幼い時に、出雲の国大社の社家(代々、神職をする家がら)に、養子に行かせた八重垣ではないか」と言う。
彼女はこれを聞いて、驚いた様子で、しばらく答えもせず、ただじっと見ていた。
浪人はふたたび言った「このように落ちぶれて昔とは違う姿なので、不審に思うのは当然だ」と、声を潜めて「自分はそなたの兄の長谷部雲六なのだ」と言うと、女はますます驚いた様子であった。
こうして雲六は女を物陰に誘って、笠を脱いで言った「世の中を忍ぶ身なので、人目の多い所では顔を出せない。そなたは何故この格好なのだ、連れ添う人もなく若い女の身で、ただ一人でこの辺に来たのか」と、問われて女は「それでは兄上でいらっしゃるのですね」涙ぐみながら「さきほどここの算置き(易者)に占ってもらったら、今日尋ね人に会うでしょうと言ったのは、本当に見通した占いです。さて私の不運を聞いてください。養家の父と母がこの春わずか一月の間に、続いて亡くなりまして、私一人が後に残ったのですが、養父の弟で私の叔父になる人が、養父の遺産を奪い取ろうと企んで、情けなくも私を追い出したので、どうしようもなく、このうえは兄上に会って、身の上をお願いするしかほかはないと思い、このように巡礼の姿になって物乞いをしながら、なんとか大和の国に来たのですが、御身が在京の時に、あそこで突然浪人の身になり、行方知れずと聞いたので、ほとんど力が抜けて、首を吊って死ぬか、淵川に身を沈めさせるかと、あれやこれやと思いめぐらせましたが、せめて諸国の霊場をめぐって、養父母の菩提の為に、自分の身の来世を助ける手がかりにしようと思いつき、社家に育って仏に使えるのは心を変えるようですが、神仏は同体とも聞きますので、心配は無いと決心して、あちらこちらと巡礼して、今日もこの御寺に詣でたら、思いがけず兄上にお会いしましたのは、全く菩薩が導きなさったのに疑いありません。あなたはまた何故に突然浪人して、こんなにも落ちぶれたのですか」と、問い返すと、雲六は答えて「自分の身の上の物語はすぐには終わらない、ことさらここは道のはしで、人出も多い所なので、詳し事は話せない。まず自分が住んでいる家に連れて行く」と、忙しそうに鼓や敷物など取り収めて、女を連れて家に帰った。 雲六の心の底が善か悪かは推し量ることは出来ない。
☆(訳者の注)
*1南北朝時代から室町時代に流行した芸能。鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞っ
たもの.。
*2【古今和歌集巻第二】108番 花の散る ことやわびしき 春霞 たつたの山の う
ぐひすの声。
*3 「おいずり」とも言う、巡礼などが笈を負うとき、衣服の背が擦れるのを防ぐた
めに着る単(ひとえ) の袖なし。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
近江国石山寺、観音開帳あるにより参詣群集す。