昔話稲妻表紙  巻之三 (第十一 2/2) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

第十一 断絃の琵琶 (2/2)

 磯菜は文弥を抱きかかえて「苦しいだろうが父上に本心を話している間は、こらえておくれよ」と、いたわりながら、楓に向かって、「悲しいのはもっともだが、委細のわけを父上に、早く話しなさい」と、言われてようやく顔を上げて、南無右衛門に向かって「御不審は当然です。前の日に父上のお話に『以前より探していた百蟹の巻物を、思いがけず、京から来た商人が持参していて、その商人を捕まえて、出所を聞くと、盗人の所在も知れ、巻物も手に入るわけだと思っても、悲しいことに日陰の身、表立って事を進められない。そうと言っても値段は百両と言う大金なので、とても自分では手に入らない。自分の手に入らないと、末代まで盗賊の汚名をすすぐ事はできない。金銭ごとでこれまで磨いてきた武士道を捨て、先祖の名を汚すのは、思えば思うほど無念である。悔しい事だ』男泣きに泣きなされて、骨身にしみて気の毒に思い、何とか金を調達してあげたいと、思ってみても他に仕方もない。幸い京都五条坂の傾城(遊郭)屋が篠村八幡の門前に、宿泊していると聞いて、ひそかに出かけて、この身を百両で買ってくれよと頼んでみると、すぐに承知したが、妖蛇の事情を聞くとそのまま契約は無しになってしまった。金が欲しいと思う心一筋で、自分の身が片輪なのに気づかなかった事だと、自分でも恥に思いながら、すごすごと帰ろうとしたら、捨てる神あれば助ける神もありと言う諺の様に、もう一人の年上の傾城屋が話すには『これまで蛇使いの女はいろいろいたが、本当の因果でそんなことがあるのはめづらしいく、ことさら生まれつき(容姿)も良いので、ただし川原(賀茂川の四条河原)で見世物にすれば、遊び(遊女)にするより、かえって儲けが多いかもしれない。もし見世物になる気があるなら、五年の年季で百両で抱える』と話すので、見世物はおろか、たとえ生きたまま皮を剥がされ、生きたまま内臓を取られても、百両の金を調達して、父上の汚名をすすげれば、少しも嫌ではありません。ことさら顔をさらしても、身を汚すよりましでしょう。多くの人に恥をさらしたならば、かえって罪による障害(祟り)が消え失せるきっかけになるのではないかと、決心して、それに決めて戻ったのですが、父上に言い出しかねていたのですが、今日は思ってもいなかった母様の御帰りを幸いとして、私の心の中を打ち明けて、さきほど裏口より一緒に出て、そこえ行って、母様の手形を添えて証書を渡して、百両を受け取り、今夜のうちに京都に旅立つことを約束して、帰ってくるとちょうど、捕手の騒動で若君の御急難、母様と物陰で、ただあきれておりました。不審になさらないでということです。文弥が持っていたあの金は、私の身の代金に間違いないです」と、泣く泣く話すと、南無右衛門は「一つの不審は晴れたけれども、それを文弥の口から、盗んだとなぜ言ったのか」と、血刀を投げ捨てて問いかけた。
 磯菜は代わって言った「若君の御急難を聞くと同時に、文弥は御身代わりと思いついたが、忠義に固いあなたでも、さすがに親子の愛情で、もしかしたら気後れするのではないかと、文弥に言い含めて、父上の気質は少しばかりも、歪んだ事を嫌うので、この金を盗んだと言いって悪口すれば、怒りに駆られて恩愛の絆を絶ち、手打ちにするのは確かです。この様に騙しなさいと、心強くも言い聞かせると、すぐに聞きとどけて『自分は前世の因果で盲目となったので、さあ!主君の御大事と言っても、戦場での働ができず、武士の子に生まれたかいがないと、日ごろ悔しく思っていたのに、若君の御身代わりとなるのは、戦場の討ち死にも同然、願ってもない幸せです。そうですがたとえ騙すといっても、親にむかって悪口して、盗んだとは不届きすぎて言えません。こればかりは許してください』と言うので『それはもっともなことだけど、そうでなくては父上の愛情を絶つことはできない、なにごともみな忠義のためです』と、ようやく納得させると、けなげにも良くやってくれました。ほめてあげて下さい。さきほど物陰であなたの様子を伺っていたら、若君を伴って逃れ出て、駄目な時は斬り死にと、覚悟した様に見えたけれど、村の出入り口や山道まで、捕手の多数がかためている事は聞いていますので、とても逃れる道はないです。切った首となって目をふさげば、盲目も目明きも区別はないです。たとえ眼平が若君の御顔を見知っていても、忠義の一心で欺けば、どうして仕損じるでしょうか。雄々しく強い男のあなたでさえ、恩愛に引かれておぼつかないと思うものを、愚かで物の道理がわからない女の心といい、朝夕はなれず世話をして、これまで育て上げた愛しい子を、すすめて殺させる胸の内を、御推量してくださって欲しい。それのみならず、娘の楓はしばしの別れと言いながら、世の中の親は我が子の片輪をどこまでも隠してやるのが普通なのに、多くの人に顔をさらさせて、丹波の国の因果娘と、後々まで恥を残すのはかわいそうです。私の身がせめて十歳年が若かったら、この身を売っても、娘に悲しい目を見せないものを」と思いを訴えながら、姉弟二人の手を取りつつ、夫に遅れをとらせまいと、耐え忍んで溜めた涙が、瞼の堤を押し破って、溢れて落ちるのは道理である。
 南無右衛門は終始を聞いて、疑いが晴れると百倍も悲しくなって、鉄石の様な心にも、内臓に焼き金が突き刺さるように思い、五臓六腑悩乱(のうらん・悩み苦しんで心が乱れること)し、しばらく言葉も出てこなかったが、ややあって言った「文弥の事は若君と同年といい、剃髪の姿といい、顔かたちも似ているので、御身代わりと思いついてはみたが、なんと言っても盲目で役にたたずと、一途に思って、死んだ首の瞼をふさげば、盲目も目明きも変わりがない所に、少しも気付かなかった。楓も容姿は優れていても、片輪なので身売りもできないと。ああ!二人の子供を持ちながら、親の因果が子に報い、忠義の用には立たない事だと、残念に思っていたが、おまえをはじめ姉弟の子供達も、たぐいまれな心の奥底だ。持つべきものは子供なのだ」と言って、涙と血と混じりあって、滝のように流した。
 文弥は母の介抱でようやく起き上がり、大人の様に手をついて言った「渇しても盗泉の水を飲まず(孔子の故事、どんなに困っていても、不正には手を出さないことのたとえ)とか聞いていたものを、母上に言われた事と言いながら、盗んでいない金を盗んだと、親を騙す言葉の罪、御許されていただきたい。前世の行いが良くなくて、生まれついてではないのに盲目となってしまえば、せめて芸道をはげみ、父母の老後の気持ちを安心させて、片輪な自分に御慈愛をくださって、御養育していただいた、大恩に報いようと、それを楽しみに四年の間、精神を込めていましたが、このたび若君に一命をたてまつり、姉上も身を売ったので、この後はさぞかし心細く思われるでしょう。生き別れ死に別れと姉弟は二つの道に別れても、死は一瞬で簡単ですが、生きて多くの人に顔を見せて、父の汚名をそそごうと思う姉上の心の中は、これはまた、とても出来ない孝行です。この年頃習得した、琵琶の一曲を父上に、聞かせずに死ぬのは、心残りですので、演奏する手はおぼつかないのですが、一曲御聞かせいたします。冥途の旅の置き土産、死別の形見と思って、お聞きください。母上様その琵琶をここえ」と言うと、磯菜は泣きながら琵琶を取り出して渡すと、わずか十一歳の盲目の子が、縹木綿(はなだもめん・明度が高い薄青色の木綿)の肩上げ(子供の体格に合わせて着物の肩の部分を上げること)に、血潮のしたたる傷口の痛さをこらえて琵琶をかき鳴らし、大変苦しそうに声を出して平家を語った。
 (語りの文章はそのまま記述 内容は☆参照)
  さるほどに、一の谷の軍(いくさ)やぶれしかば、武蔵の

      国の住人熊谷(くまがえ)の次郎直実、平家の公達(きん

      だち)助たすけ船にのらんとて、みぎはのかたへおちゆき

      給ふらん。

  あつぱれよき大将軍にくまばや思ひ、ほそ道にかかつて、み

      ぎはのかたへあゆまする所に、ここにねりぬきに鶴ぬうたる

      直垂(ひたたれ)に萌黄匂(もえぎにほい)の鎧着て鍬形

    (くはがた)打ちたる甲(かぶと)の緒をしめ、黄金(こが

     ね)作りの太刀をはき、二十四さいたるきりふの矢おひ、重

     藤弓(しげとうのゆみ)もち、連銭驄(れんぜんあしげ)な

    る馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍おいてのつたりける者

     一 騎、沖なる船を目にかけ、海へさつと 打入(うちい

     れ)、五六たんばかりぞおよがせける。
と、歌う唱歌も声がくもって、弾く手も震えてしっかりとならないが、さすが日頃の手練といい、この世のなごりと思うから、苦しい息を励ましながら、三重の甲(高音部)をあげ、初重の乙(低音部)に収めて(初重から三重までは2オクターブの音域)、歌い終わると、太い弦は嘈々(そうそう・人声が騒々しい)として急な雨のようで、細い弦は切々(しみじみ)としてひそかに話すようで、昭君(中国四大美人の一人)が馬上で琵琶を演奏して、楽天客船で聞くよりも、はるかに優れて哀れであった。
 南無右衛門は耳をそばだてて聞いていたが、恩愛切ない歎きのうえに、この様な悲しい調べを聞いて、皮と肉が離れる気持ちがして、堪えかねて泣き伏した。
 磯菜も楓も一緒に、涙にむせぶだけであった。
 文弥は、なをも声の勢いを出して
  熊谷なみだをはらはらとながいて、あれ御覧候らへ。いかに

  もしてたすけまゐらせんとは存(ぞんじ)候らへども、味方

  の軍兵(ぐんぴょう)うんかのごとくみちみちて、よものが

  しまゐらせ候らはじ。あはれおなじうは直実が手にかけ奉り

     て、後の御考養をもつかまつり候らはんと申ければ、只何様

 (なによう)にもとうとう首をとれとぞのたまいける。

  くまがえあまりにいとほしくて、いづくに刀を立べしともお

  ぼえず。目もくれ心もきえはてて、前後ふかくにおぼえけれ

  ども、さてしもあるべきことならねば、なくなく首をぞかい

  てける。  
と、歌う声さえ、しだいに弱りほとんど絶えそうな琵琶の弦に、かかる血潮が傷口より、さっと流れれば「ああ苦しい、もう歌うことができない。これまでです」と、琵琶を置き「この世でさえ一本の杖をたよりにする暗黒の道、死んでからの旅路はなおさらに、暗闇地獄に迷って行き、目の無い餓鬼と生まれ出て、呵責(かしゃく・責めさいなむこと)を受ける事になるのは決まっています。それを不憫(ふびん・あわれ)と思いますなら、末期の水をさかさまに、逆縁(きゃくえん・親より先に子が死ぬこと、親が子の死をとむらうこと)ですが自らのお手で、香花(こうげ・仏前に供える香と花)を手向けて下さい。私の身の功徳(くどく・仏の恵み)には、他人の千人の僧の供養より、はるかに勝ります。そうでなくても、親子は一世(現世)の結びつきと聞くと、盲目の悲しさは、父上母上が、千万年の御年を過ぎて、冥途においでになっても、お顔を見ることはできないと、思えばこれが三世(前世・現世・来世)の別れ、また会うことはないと思えば、たいへん悲しくなごり惜しい。父上はどこにおりますか」と、言いながらはいよって、身体中を探り、撫でまわしながら「ご苦労なされているせいか、ひどくやつれが見えます。必ず病気にならないで下さい。とにかく御身に何に事も無く、長寿でいてください」と、今わの際( 最期のとき)まで孝心の深い言葉を聞くとなを、南無右衛門は胸がふさがって、主君の御先を見届けた後は、藤波の縁の者を探して、恨みの刃にかかって死ぬべきと、以前よりの覚悟なので、思えば蜉蝣(かげろう・虫の名、儚いもののたとえ)の生涯で、明日をも分からないこの身なのに、それとは少しも知らずに、長生きしろとは、愛しい言葉であると、心に思いながら、口には言えず「過去の修因今生の現果(過去のおこないが原因となって受ける現世での報い)、運の悪い自分だな」とだけ言って、とにかく涙にむせんだ。
 磯菜と楓の二人は、文弥の左右に取り付いて、これが三世の別れと、声も惜しまず泣くと、文弥は二人の身体を探って「せめてもの事にただ一目、お顔を見て死にたかった。盲目となったのはなんの因果」とまた今更に繰り返して、血も吐くばかりに泣いたが、ちょうど空で時鳥(ほととぎす)が一声鳴いて飛んでゆくと「死出の田長(しでのたおさ・ほととぎすの別名、死出の山を越えて来る鳥の意)の道案内、ながく苦痛をするよりは、少しでもはやく父上もお手にかかるのに及ぶことはない」と、西にむかって合掌して、しばらく念仏を唱えながら「さあさあ」と催促して、首を差し出して待っていると、南無右衛門は子に励まされて身をおこし、刀を抜いて側に持ち、やがて後ろにまわって立ったが、前に斬ったのは怒りの刀、今は恩愛の、やりきれない思いの剣なので、手が震え足も萎えて、どこえ剣を打つべきなのか考えられなかった。

 いま聞いた琵琶の唱歌の、熊谷の次郎は敵でさえ、敦盛を打ち兼ねたものを、現在我が子を斬る思い、どうして耐え忍ぶべきかと、朦朧(もうろう)とした様子であったが、時間がたって仕損じれば、彼の忠死も水の泡と、思い切って、よろめく足を踏みしめながら「若我成仏十方南無阿弥陀仏世界、念仏衆生摂取不捨」と、声もろとも、はっしと斬れば、無残なことに、首は前にころがり落ちて、死骸は後ろに倒れた。
 磯菜と楓は、太刀の音とともに叫んで打ち伏した。

 ちょうど遠い寺の鐘の音がして、もう三更の時であるので、猶予はないと近寄って、あの金を取って収めて、手早く死骸を葛籠に隠して、泣き伏す妻を引き起こして「泣いている時ではない、この金を持って裏道より、あの巻物を買い取って来い。娘とは今夜で生き別れ、少し名残を惜しみなさい」と、鮮血の滴る首を持って、二人を引き立てながら、隔てる襖を閉め切って、その後は音もなかった。
 「約束の時刻がきたぞ」と黒星眼平は手下の者を引き連れて来て「さあさあ南無右衛門、若君の首を打ったのか、どうだどうだ」と、呼びかけると、部屋の中から南無右衛門は、首桶を持って打ちし折れながら歩いて出ので、厳命もだし難く「気の毒でしたが御首を打ちました。さあ御点検を」と差し出すと、眼平は言った「自分は月若殿をよく見知っている事は、以前より知っているお前であれば、まさか偽首を渡さないだろう。もしまた少しでも偽るのならば、たちまちお前の身の上だ」と、にらみながら首桶を引き寄せて、すぐに蓋を開けようとした。
 南無右衛門はもし仮首と見破られてしまったら、斬り死にする覚悟で、袖の下で刀を抜きかけて、固唾を飲んで控えていいると、本当に危なく見えた。

 眼平は蓋を取りのけて、これはと驚いた様子であったが、文弥の首の口の中から陰気が吐き出たと南無右衛門の目にのみ見えたが、眼平はすぐに目がくらんで「いかにも月若殿の御首に相違なし。よく打ったぞ」と、称賛して首桶を取って収めて、従者を近づけて、遠巻きの者達を、早くひかせろと命令して、再び南無右衛門に向かって「若君の首を打ったので、お前に対しては構いなし。旧悪の罪はあるが、この度の功績により、大殿の御前では良い様に取りなしてやる」と、言い捨てて、多数の人を引き連れて帰っていった。
 南無右衛門は、溜息をほっとついて、遠巻きの者達が引いていくと、もはや気遣う事はない。若君を逃れさせように、支度をしようと思いながら立ち上がったその時、妻の磯菜が息もつかずに急いで来て、「様子はどうですか」と聞くと、文弥の一念が陰気を吐き出して、眼平の目をくらませて、十分に騙したと聞いて、磯菜は心が落ち着いて、あの巻物を取り出して渡すと、南無右衛門は開いて見て、「お家の大切な宝に間違いない」と、巻いて収めて「これさえあれば、自分の穢れた名をそそぎ、末代までも清らかである。これというのも楓の孝心が深い為だ。娘はもう旅立ったのか。ああ不憫だ、さぞ悲しかったろう。いま思えば、あの子を楓と名付けたたのは、かえでは蛙手(かえるて)の略した言い方で、小蛇が祟る前兆であった。文弥が初めの名を栗太郎と名付けたのも、丹波の国の爺打栗(ててうちぐり・歌舞伎、浄瑠璃の題名)、爺に打たれる因縁か。ただこうなっては文弥の、菩提を弔うのが大切だ。眼平は一度偽首を持って行ったが、今に偽と気が付いて、再びここに寄せて来るに決まっている。すぐにも早く若君を、逃がすに越した事はない」と言って、奥に入って、若君の手をたづさえて出てくれば、月若は目を泣きはらして「夫婦の忠節は身に余る。かわいそうな文弥の身の最後だ」と、嘆いておっしゃる一言が、世に認められているときの千石より、夫婦の身にはありがたく、南無右衛門は巻物を懐に入れて、死骸を入れた葛籠を背負い、若君の御手を取れば、磯菜は琵琶を抱き、地水火風四つの弦の、切れた息子の形見であると、転手撥面半月(てんじゆばちはんげつ・平家琵琶の各部の名称を参照)の、月の光を頼りにして、播磨の方え逃げて行った。

〇(原著者の解説)
 こうして南無右衛門夫婦は、若君を助けて、播磨より河内に至り、ゆかりのある寺を頼って、文弥の遺体を火葬した。
 形見の琵琶を施物として、仏事を営んで、若君に磯菜をつけて、この寺に隠れさせておいて、自分はあの巻物を持って、桂之介や銀杏の前の行方を捜しに出て行った。

☆(訳者の解説)
 原文は【平家物語 巻第九 敦盛最期】である。

 源氏側の熊谷次郎直実は、船で逃れようとする平家の武将を

 海岸で探していると、船を目ざして海に入る一騎の武者を見

 つけて、戦いを挑む。

 熊谷はあっさりと敵を馬から落として討ち取ろうとすると、

 相手が自分の息子ぐらいの美少年であるのに気が付いて、躊

 躇する。

 平家との勝敗はほぼ決まっているので、相手を助けようとす

 るが、拒否される。

   味方の軍勢も多数押し寄せて来るので、結局誰かに討たれる

 であろうと、熊谷はかわいそうで、意識が朦朧となって泣き

 ながら首を斬った。

 少年は笛を持っていて、熊谷は明け方に城のなかで管弦して

 いたのはこの方々かと、その優雅さに感心する。

 義経の首実験により、敦盛と言って十七歳であったことが分

 かる。

 その後、熊谷は出家する。

   この話は関東の源氏側は芸術を理解できない野蛮人で、関西

   の平家側は貴族的で優雅であるとする熊谷の視線を感じる。

(久々に家族そろってなごやかな雰囲気でしたが、結局、楓は因果娘として身売り、文弥は父に首を斬り落とされる悲惨な結果となってしまいました。次回は銀杏の前がひどい目にあいます{訳者})

【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】 
文弥手をおひ、実は月若の身代にならん覚悟と本心をかたり、死出のおきみやげなりとて、平家をかたるその声いともあはれなり。


【国立国会図書館デジタルコレクション  明19・2 刊行版より】

 

巻之三終