第三 胸中の機關(機関・からくり)。
さて、右近馬場の館においては、その夜藤波の妹於龍が、姉の死骸を見つけて大いに驚き、声をたてて呼んだので、宿直の武士等が急いで集まり、大いに騒いで、忙しく主君の前に出て、こんな事になっていますと報告すると、桂之助はあわてふためいてその場に到着して、藤波の死骸を点検して、驚いたり悲しんだりして、何者の仕業であるかと疑い、まず於龍を呼んで事件の様子を聞くと、佐々良三八郎が殺したことを告げた時、笹野蟹蔵がいそいでやってきて「百蟹の巻物が紛失しています」と言った。
桂之助はますます驚き「館中こまかく穿鑿すると、三八郎は家財はそのままで、妻子を連れて逃げさり、長谷部雲六も失踪しています」と報告すると、「さては、彼ら両人申し合わせて、百蟹の巻物を盗み取ったのを、藤波に見とがめられ、しようがなく殺害して去ったに疑いない、足の弱い者を連れているので、遠くまでは走れないだろう。追手を使って早く捕えさせろ」と命じると、四方に手分けして追って行った。
こうして翌朝になって、追手の者たちが戻って来て「何処に逃げ去ったのか、影も形も見えません」と告げると、桂之助はただあきれるばかりであった。
これでさえ不慮の騒動なのに、取次の侍がやってきて「御国元より、執権不破道犬自身が上京して、ただいま到着いたしました」と告げた。
桂之助は眉をしかめて「前もって何の連絡もないのに、道犬自ら上京するとは、理解できない事だ。何事だろう」と不安で、待っているとほどなく不破道犬は旅の装いのままで通ってきた。
その姿はどうかというと、総髪の頭に白雪をのせ、皺んだ額に老いの波を浮かべ、高齢といえども身体は健康で、奸佞(かんねい・悪賢い)の顔は野狐(やこ)の様で、貪欲な眼は皂雕(くまたか・熊鷹)に類し、相貌はきわめて凶悪である。笹野蟹蔵、藻屑三平、土子泥助、犬上雁八等、四人の者が、あとについて出てきた。
桂之助は道犬に対面して、まずほかのことは言わず「突然の上京とは何事なのか気がかりだ」ど言うと、道犬は気の毒そうな顔で言ったのは「火急の上京はほかのことではなく、ちかごろ若殿の御身の身持ちが悪く、旅館におられながら白拍子を召し抱えて妾になされ、それのみならず仮病をつかい、佚遊(いつゆう・気ままに楽しむこと)宴楽(えんらく・酒宴を開いて楽しむこと)に日を費やし、御所の勤務を怠りなされ、官領職(かんれいしょく・室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職)濱名入道殿がお聞きになり、擯斥(ひんせき・しりぞけること)するべきと御内意(ないい・内々の意向)あり。もしそうでなければ、御家にもかかわりその罪は大殿の御身にも負いなされる事態であれば、なすすべもなく、御勘当の御事となり。大殿自筆の罪状を御覧になって下さい」と言って懐より一通の状を取り出して差し出せば、桂之助は取り上げて読み終わらずに、胸がひしと潰れて大いに後悔して、ただうつむいて言葉もなかった。
道犬がかさねて言ったのは「笹野蟹蔵、藻屑三平、土子泥助、犬上雁八等四人の者は、君の御傍にありながら、お諫めもせずかえって放蕩をすすめ申したゆえにその罪軽からず、切腹を仰せかられるべきはずであるが、大殿の御慈悲によって、裏門より追い払えとの厳命である」と言い渡すと、四人はしょんぼりして弱ってしまった。
道犬はまた言った「ただいま、取次で聞きましたが、佐々良三八郎、長谷部雲六と言い合わせて、昨夜百蟹の巻物を盗み、御妾の藤波とやらを殺し逃げ去ったいきさつ、そのようにあれば内乱の起こるのも、すべてその若殿の御振る舞いが宜しくないからです。あの巻物は御家の重宝であり、いまだに室町殿の御覧も済んでいない事、もしこれらの事をこのうえ御聞きになれば、どのようなお咎めがあるのかはかり知れません。御気の毒ではありますが、はやく御立ち退きして下さい。後日、自分の身にかえても、御戻りなされますうように取り計らい致します。ただ無事で居いて時がくるのを待っていて下さい。あの女の死骸は縁者を呼んで引き渡します」と言って、まず自分の家来に命じて四人の者を追い払わせれば、桂之助はどうしようもなく、打ちしおれながら出て行った。心のうちが思いやられて哀れである。
こうして道犬は藤波の縁者を呼び、死骸と於龍を引き渡し、館の家財を取りまとめて、自分の家来を留めて守らせ、すぐに帰国した。
〇(原著者の解説)後々この時の子細を聞くと、これはみな道犬のたくらみより出たことである。近頃、由里之助勝基(ゆりのすけかつもと) と濱名入道の二人の官領が確執となり、入道は勝基を打ち滅ぼそうと計画をひたすらしていたが、以前より不破道犬は濱名入道に内通してこびへつらい、管領の権威をかりて、奸計をおこない、佐々木の家を奪い濱名入道の味方につくと約束して、せがれの伴左衛門そのほか蟹蔵等にいいふくめて、桂之助に放蕩をすすめ、濱名入道に密告して、内意を言わせて勘当させて、わざと蟹蔵等四人の者を追い払って、家中の者の心を信頼させ、伴左衛門と共に他所にかくまっておき、何不足なく扶助して、自分の目代(めじろ・代理)とし、内外より事を計画する工作である。
ただ自分達の予想外だったのは、半左衛門が藤波に恋慕したのと、雲六が巻物を盗んで逃げ去ったのと、この二つのみである。
第四 荒屋の奇計。
山城国蔦野郡(かどのこほり・京都にあった地名)松尾の近くに、梅津の里、梅津の川という所があった。 ともに古歌に詠まれた所である。
その昔、元亨(げんこう・1321年~1324年)の頃この里に梅津豊前左衛門清景(うめづびぜんのさえもんきよかげ)という人がいた。この所の領主で、家は豊で栄えた武士であったが、そのころ月林大憧国師(げつりんたいどうこくし・、鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗松源派の僧侶)が洛北岩藏の庵室に居ますのを深く尊び信仰して法名(仏教徒としての名前)を是球と称し、所領のなかを与えて禅刹(ぜんさつ・禅寺)とする。今の大梅山長福寺と言うのはつまりこれである。清景の墓は今でもこの寺にある。
さてこの清景の子孫に梅津嘉門(うめづのかもん)という者があった。代々この里に住んでいたが徐々に落ちぶれて行って、現在の嘉門の時になって、益々困窮した。
嘉門の歳はまだ初老にならず、聡明で一般より秀でて精神力も体力も人を超え、世にも稀な英雄である。
かつて六鞱三略(りくとうさんりやく・古代中国の兵法書)を熟読して、軍略の妙所(きわめてすぐれた箇所)を極め、弓馬槍刀の類、武芸の奥儀をさとり、天文地理、神機(はかり知れない機略)妙算(すぐれたはかりごと)進退駆引の道、その理論を習得できないことはなかった。
それゆえに名声は隠れることはなく、高給を与えて、召し抱えようと、熱心に希望する諸侯は多かったが、名誉や利益に屈するのを嫌い仕官を望まず、常に松尾山を登って、採薬して薬屋に売って、細い煙をたてて清貧を守り、すこしも思いあがる気持ちはなく、一人の老母に孝行をつくし、姿も斬髪でみすぼらしく、ひまな時は先祖清景大憧国師より伝わる禅味(ぜんみ・禅の趣。禅の、俗気を離れた味わい)を楽しみ、世にへつらわない暮らし、実に現世の賢人として知られる。
母もまた賢女で、今の世はいろいろ太平といえども、使えるべき名君はいないと心に決め、名誉と利益に屈しないのを喜び、自分の手で布を織って日々の生活費にかえ、すこしも貧苦を嘆くことなく暮らした。
しかし、この頃彗星が現れることにより、多くの人々が不安になり吉凶をのべる者はいなかったが、ある夜嘉門は縁先に立ち出て、その星を仰いで見て、母を呼んで言うには「そもそも我が朝廷に彗星が現れた事は、皇極天皇の御時代、蘇我入鹿の反乱の時、始めてこの星が現れてより、今にいたるまで一度も祥瑞(しょうずい・縁起のよい前兆)であったことはない。
およそ彗星には五つある。その色蒼きときは王侯敗れて君主は兵革(へいかく・戦乱)に苦しみ、赤きときは凶賊が起こって国民は安全でない。黄色のときは女色が害をなす。 白いときは将軍が反逆して兵乱大いに起こる。黒いのは水の精で、洪水河に溢れて五穀実らず。
あれを見てくださいこの度の彗星は、蒼に黄をおびている。まさしくこれ牝鶏朝鳴きして婦女権を奪う(朝鳴きは雄鶏がする。それも権力順とする研究もあるが、牝鶏が最初に鳴いたら牝鶏が権力を握ったことになる{訳者})、君主が兵革に苦しみなさる前兆でしょう。母上は如何思います」と言えば、老母はうなずいて「私の解釈もその考えに尽きる。花の都が狐狼の寝床になることは遠くない。はやくこの所を去り山林に隠れて、兵乱を避けたほうが良い」と言うが、この後 予想したとおりに応仁の大乱が起こった。 母子両人の先見は誠に明らかである言うべきである。
この頃、由理之助勝基と濱名入道の二人の管領であるが、勝基は濱名の婿であり近い間柄の子供がいなかったので、濱名の子を養っていたが、勝基に実子ができたので、その養子を僧にした。
これにより両家は確執となり、濱名は勝基を打ち滅ぼし、おのれ一人権威を欲しいままにしようと望み、密かに野武士や浪人どもを召し抱えていたが、嘉門が軍略に深く通じている事を聞きおよび、召し抱えようと使者使って申し入れた。
嘉門はかねてより入道の日頃の振る舞いを憎んでいたうえに、使者の話がもっぱら管領職の権威をふりかざし、無礼の言葉が多いので、嘉門は心中に憤り、招きに応じないのみか、かえって入道の日頃の非道を数え軽蔑して辱め、厳しく言い放つと、使者は面目を失い慌てて逃げるように立ち帰り、入道に嘉門が言い並べた様を、あからさまに報告した。
入道は聞き終わらないうちにおおいに憤慨し「くそっ!憎い腐れ儒者の奴め。酷い目を見せて後悔させてやる」と、家来の岩坂猪之八(いわさかいのはち)という荒々しい男に、大力の手下を二十数人を選んで与え「あいつも智謀武術に優れている者なので、もし手に余るようなら首だけ持ち帰れ」と命じた。
血気にはやる猪之八は「謹んで御受けいたします」と答え、小具足(こぐそく・鎧・兜・袖以外のものを指す。室町時代で,面具,喉輪,肩当て,襟回り,脇当て,籠手 ⦅こて⦆ ,佩楯 ⦅はいだて⦆,膝当)に身をかため「彼奴(きやつ・あの野郎)がたとえ楠(楠木正成)の知恵を持って、義経(源義経)の早業を得ていたとしても、痩せ浪人の分際で何ほどの事がある。粗末な小屋を踏みつぶして首筋をつかんで帰るぞ」と広言を吐くと、思慮の無い手下達は、気負って進んで、ともに従い梅津の里へ急いで行った。
ああ、嘉門の身の上が危ない状況である。この時、宵闇の夜であるが、猪之八達が嘉門の家に近づくころ、月の光が上って明るかった。
嘉門の灯の下で書を読む影法師が、あかり障子に映って確かに見えた。絶えず打つ砧(きぬた・洗った布をたたくための道具)の音がするのは、老母の手作業と思しい。
猪之八等は竹藪の中に身を潜め、しばらく機会をうかがっていると、嘉門は巣の鳥が鳴き騒ぐのを聞き「ああ可笑しい、自分の推量に違わず、命知らずの愚か者達が、我が家を襲うと思っていた。よし、皆殺しにしてくれる」と、灯を吹き消して、その後音は無い。
猪之八はこれを聞いて「憎いやつめが言うことだ。早く捕まえて手柄にしろ者ども」と命令しながら、門の外より声高く「これは管領職の厳命を受け、嘉門を召し捕らえるため岩坂猪之八が赴いた。すぐに門を開き、いさぎよく縄にかかれ」と呼ぶと障子の内からカラカラとと笑う声がして「お前らのごときつまらない連中はおろか、たとえ濱名入道自ら数百騎をもって攻めるとも更におそれる所はない。嘉門の居宅は鉄壁石門要害堅固の城郭も同然である。命が惜しかったら頭をおさえて早く逃げ帰れ」とあざけって言った。
猪之八等は大いに怒って、門を開こうとするが堅く閉ざしている。しやものしやものし(意味不明・’しゃ’にはののしる意味があるので、’こんな物’の意とも考えられる{訳者})と力をこめてグッと押すと、結合部分がゆるくなり隙間できると、「エイヤッ!」と踏み破り、大勢一度に乱入して、縁側の上に飛び上がり、障子をサッと開ければ、一間を隔てて梅津嘉門は、萌黄(もえき・黄色がかった薄緑色)薫(におい)の腹巻(鎧の一つ)の上に、金紗(きんしゃ・金糸で模様を織り出した薄くて軽い織物)の道服(どうふく・室町時代の上着)を着て、黄金作りの円鞘(まるさや・軍陣用の堅固な仕立てとして厚く楕円形に削った鞘)の太刀を腰におび、手に文曲武曲(ぶんきょくぶきょく)の二星(北斗七星を構成する二星)を描いた軍扇(武将が、戦場で軍勢を指揮するのに使った扇)を取って床机(しょうぎ・折畳式簡易腰掛)に腰掛けた有様で、志気堂々威風凛々(やる気満々で貫禄たっぷり)として、いかにも一人の英雄に見えた。
老母はふるびているが、摺箔(すりはく・金箔と接着剤を用いた衣類の装飾技法)の昔模様の袿衣(うわぎ)を壺折(つぼおり・裾をたくし上げ、腰のあたりを紐で結び留めてから折り下げること)に着て、雪の様な白髪をたれ、玉たすきをかけてしっかりとした身なり、銀の蛭巻き(ひるまき・薙刀の柄を鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いた)した薙刀を小脇に抱えてはさんで、傍らに控えた姿は、古い梅の木に昔の香りが残っているようで奥ゆかしい。
左の方に千金弩(せんきんど)と称して、一発数十の矢を飛ばす兵器をすえ、右には近頃蛮国より渡った、強固な岩をも打ち砕く火術の兵器、五六丁の筒先をそろえてならべている。
勢い込んだ手下達は飛び道具に気後れし、進みかねているのを見て猪之八は声を励まし「不甲斐ない者どもだな。わづか嘉門一人のほかは、か弱い婆さんだ。三面六臂(さんめんろっぴ・三つの顔と六本の腕、ひとりで数人分もの働きがあること)あっても、どのようにて数々の矢と弾を打てる事はできるのか。見せかけばかりの兵器だ恐れるに足りない。はやく近寄って捕まえろ。もし取り逃がしたら我々の落ち度であると報告するぞ」手下達もいかにもそうだろうと思い、我先にとあらそって飛び掛かろうとした所に、嘉門は扇をあげて一あおぎあおぐと、かねて用意の煙硝縄に燈火がうつり、綱火(導火線)となって五六丁の火術の兵器が、一度に発砲して、その響きは大きな雷のようで、多数の弾丸が飛び出して、前に進んでいた手下十数人打倒され、煙の中に苦しみ悶えて伏した。
老母は薙刀の鐏(いしづき・柄の先端)で以て弩(いしゆみ・引き金などの発射機構を備えた弓)を一つ突くと、数十の矢が雨のようにとびかかって、手下を残らず射って倒した。
猪之八は素早く畳を盾にして矢玉を逃れて、逃げ出ようとしたが、たちまち板敷がガラガラとひっくり返って、深い落とし穴の中にドッと落ちて、底に立てた剣に身を貫かれ血に赤く染まって死んだ。
嘉門が以前よりこれらの装備をしておいた理由であるが、これまで近隣他国の諸侯の招待に応じないので、もし自分の器量をねたみ、不意を襲う者があるのを防ぐためであるが、予想していたとおりにこの度は不慮の難儀を逃れられた。
さて嘉門は老母に向かって「今夜のことを聞けば濵名入道は増々怒って、多勢でここを取り囲めば逃れる手段はない。幸い、母上は以前山林に身を隠して、生涯無事に過ごす計画の心がありましたので、今夜のうちにこの所を逃げ去るのが良いでしょう。母上はどう思いますか」と言う。
老母もその意思は同じで、親子二人はいそいで身支度して、雑多な物はそのまま捨てて置いて、先祖伝来の兵家(中国の諸子百家の一つ。戦略,戦闘方法,兵器の使用,軍事上の禁忌などを研究した一派)の秘書、大憧国師の法語(仏教の教義を説いた言葉)のみを嘉門は懐に入れて、老母を背負って、何処ともなく去って行った。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
桂之助放逸無慚の行跡あるにより、勘当すべきよし、管領職の内意あり、
執権不破道犬上京して、その事を伝え、笹野蟹蔵等四人を後門より追払ふ。
梅津嘉門彗星を見て治乱興亡を論じ、奇計を施して皆殺しにす。
【国立国会図書館デジタルコレクション 明19・2 刊行版より】
巻之一終