桜姫全傳曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのさうし) 巻之五 (第十九、二十) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

第十九 桜姫離魂化して骸骨となる。
  さてある日、弥陀二郎道心、常照阿闍梨と共に、淀川で感得した霊仏を大切に持参して鷲尾の館に来て、宗雄に会って言ったのは「姫君が物の怪の為に悩まされている事を聞いて、その病苦を救おうと思い、法然上人に怨霊得脱(怨霊を成仏させる)の教化(教え導き)を願ったが、上人がおっしゃるには、私は歳で衰えて歩くのが困難で、遠くへ行く事はできず、常照坊を私の代わりとして遣わしなさい。これで教化するべしと、常照阿闍梨に上人が常に指先で繰っていた珠数を授けて下さいました。またこの笈の仏は、前年自分が淀川で、感得して授かった紫磨黄金の霊仏で、八幡の神宮の告げがあって、真の身の阿弥陀仏であるのは疑いない。ここにいらっしゃるのは常照阿闍梨と申して、上人の高弟でいらっしゃいます」と言って引き合わせれば、宗雄は恭しく礼をして、初対面の挨拶を終わって言った「上人の念珠も、真の身の御仏もあるうえに、阿闍梨の徳を恵み与えて教化するのであれば、如何なる怨霊も得脱する事は疑いない。願いますのは一時もはやく、病苦から救ってください」と言う。
 阿闍梨は言った「二郎道心の話を聞くと、さぞ酷い事と思われて、拙僧は修行が足りず霊験があるとも思わないが、師の房の指示と、二郎道心の頼みも無視できず、ここまで来ました。力の及ぶ限り念じてみましょう」と言うのを、宗雄は野分の方にこう聞いて告げれば、野分の方は喜んで出迎え、姫の病床に導いた。
  こうして阿闍梨、二郎道心を連れてそこに着くと、野分の方、宗雄は病床の左右に座る。田鳥、篠村、山吹等、下の方に並んで座る。
  阿闍梨は、まず笈の仏の扉を開き、香をつまんでしばらく念じ、さて「病人に対面しよう」と言えば、山吹は立ち上がって屏風を引き上げた。
 阿闍梨はよくよく見ると、錦の寝具を重ねた上に、二人の姫が黒髪を乱し、脇息(脇に置いてもたれかかるための安楽用具)に寄りかかってすやすやと眠っていた。いかにも病み疲れたとみえて、肉が落ちて痩細った様子だが、自然の美貌、梨花に雨をふくみ、白玉に香をそえた風情である。二人共に同じ姿で、どちらが偽物なのか判別できなかった。
  阿闍梨は珠数を袖にくるんで持ち、袈裟を引き上げながら近く進んでいった「いいか清玄とやらの霊魂、我が言う道理を良く聞け。お前はかりにも仏體を学んだ身でありながら、恋慕の凡情に戒めの行いを破って、罪のない姫を苦しめて、災いするのは、何の理由がある。すぐにも思い捕らわれている悪い思いを滅して、成仏得脱を望みなさい。清玄、眠りを醒ましなさい」と声高く言えば、二人の桜姫はようやく目を開き、瞼をだるそうに阿闍梨を見て頭を振って「成仏の望みは全くない。ただこの姫に取り憑いて苦痛を与えることが心地よい。無駄なことを言うな」と言ってまた眠った。
  阿闍梨は膝を立て直して、衣の袖を巻き上げて、言葉を激しくして言った「あさましい、汝は執着の念が深く中有(ちゅうう・死有から次の生有までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。7日間を1期とし、第7の49日までとする)の迷える者となり、さらに流転の穢土(えど・現世)を離れる心がない。しかるに我は、たまたま師の房の命を受け、遠くから来て汝を迷いから救おうとしている。極重悪人無他方便(ごくじゅうあくにんむたほうべん・往生要集より極悪人は念仏を唱えるしか救いはない事)こそ、本願(仏の願い)の恩恵ではないのか。清玄よ、どうだどうだ」と責め立てると、二人の桜姫は眠りを醒まして、 座り直して姿勢を正して言ったのは「どのような事があっても、仔細は語るまいと思っていたが、阿闍梨の慈悲心に感じて、深い恨みの原因を語ってあげましょう。これを聞いての理由を察して教化をやめて下さい。みんなも聞いて下さい。もとからこれは清玄の霊ではなく、玉琴の怨魂であるのです。私は、もと都の白拍子でしたが、亡き君義治公に購われて妾となり、名に玉琴を頂き、篠村八郎公連殿に預けられ、御寵愛は浅くなく、ついに殿の胤を宿してすでに八か月に満ちると、野分の方の嫉妬が深く、蝦蟇使いが所持していた、尾長蝦蟇というものを使って奸計を行い、兵藤太に命じて私を盗ませて、目の前で嬲(なぶ)り殺しにさせられ、それだけでなく顔の皮を剥がされ赤裸にされて、大江山の谷川に沈めさせ、後日事が漏れるのを恐れて、その夜すぐに兵藤太を手打ちにし、盗賊にしたてて大勢の人を欺いた。気の毒に、公連殿は、私を奪われたことによって言い訳もなく、切腹して果てられた。しかし私の死骸の重しを結んだ縄が解けて、川下に流れ着き、犬に腹を食い破られてすでに胎内の子を食い殺されようとするのを、弥陀二郎殿の情けにより拾い取られたが、すぐに死んだ。その時、私の魂魄が胸の中にとりついて生き返らせ、弥陀二郎殿の介抱を受けたが、ついに旅の途中で、清水寺の敬月阿闍梨にもらわれて、成長して徒弟となり、法名に清玄を頂いた。そうであればつまり清玄は亡き君義治の御胤で、桜姫殿とは別腹の兄弟です。私の魂魄は清玄にいつも寄り添って離れず付き添い、せめて悪趣(死後におもむく苦悩の世界)を逃れるために、学問読経を怠らせないようにして、仏道を修めて身に得た力を確かにするように行わせたていたが、前年、桜姫殿が名所の花見詣でに来た時、素晴らしく美麗な旅の装いを見て妬ましく、我が子の清玄はまさしく姫の兄。私が何の災いもなく産んでいれば、あのように大勢を従えて、桑田の長者と尊敬され、私も世の楽しみをきわめたものを、野分の方の嫉妬によって、思いがけず死んだだけでなく若君もこの様に、名もない出家としておく事の悔しさを思いながら、姫の美しい姿と、清玄のみすぼらしい有様と比べて見ると、さらに怨恨が強くなり、どうせ地獄に落ちるのなら、永く祟って、仇を返して恨みを晴らそうと、再び清玄の胸の中に入り、実際に我が子に凡情を起こさせて、戒めの行いを破らせて姫を悩ませたが、姫に恨みはないと言っても、人並み以上にとりわけ娘を思う野分の方の性格であれば、まず目の前で姫に苦痛を受けさせて、野分の方を嘆かせて、その後に野分の方をも取り殺そうと思ったからです。そうであれば私と清玄は親子の二人に分かれても、元の魂魄は一つです。桜姫が小野の里において、定まった運命により死んだのを、鳥部野で甦生させて今まで一命を保たせたのも、私の成せし業で真実の甦生ではなく、ただ野分の方につらい思いをさせる為、罪のない姫を苦しめる事は気の毒で、一度は心が揺れたが、前夜の姫の琴の調べ、その曲の素晴らしさにひかれて、再び出てきて、私が殺された時の苦しさを思い出して、また復讐する気持ちになった。また野分の方が蝦蟇丸の為に殺されるべきであったのを、私の霊が小蛇となって止めたのも、生かしておいて、辛い目を見せた上で、取り殺すためであった。また相州竹の下道で、私の霊が小蛇となり、弥陀二郎殿を導いて篠村殿に会わせたのも、弥陀二郎殿は私の死骸をかくし、我が子を拾ってくれた恩人です。篠村殿は私の為に父の公連殿が切腹しただけでなく、その身も浪々の身となって気の毒で、両士を会わせて互いに力を合わさせ、義治公の仇を報わせる私の少しばかりの志です。この仔細を知らせず、ながく姫を悩ませて、野分の方を苦しめようと思っていたのですが、阿闍梨の慈悲心に黙っていられず語り聞かせました。なん度考えても、成仏の望みはなく、はやくお帰りになって下さい」と言い終わり、野分の方に「お前が私を嬲り殺しにさせた時、私の苦痛はどれほどであったと思うのか。生きかわり、死にかわり、六道四生に仕返しをして、思い知らせてやると言ったことを忘れたのか。このように仔細を語ってしまったので、永くこの世には留まれない。見ていなさい、近いうちにお前を取り殺し、共に奈落へ引き連れて行き、思い知らせてやる」と言いながら美しい眉毛を逆立てて、光る眼を威圧して、睨みつける光景は、恐ろしいと表現するのも愚かである。
  このように、ものを言うのも身の動きも、二人の桜姫は全く同じで、どちらが本物か知ることができなかった。だれもが皆、清玄の死霊とのみ思っていて、玉琴の怨魂であることに気付かなかったので、これを聞いて驚きあった。
   この時阿闍梨は、病床近くによって言ったのは「汝の物語るのを聞けば怨恨の深いのも道理であるが、怨魂が悪鬼となって永劫に悪趣(地獄など)に苦しむよりも私の教化を聞き入れて、はやく成仏得脱しなさい」と、四誓の偈(『無量寿経』の一節)を数遍誦へ、心経(般若心経)三遍繰り返し、随求陀羅尼、光明真言、顕密甚深の紳呪陀羅尼(真言、陀羅尼は密教の呪文マントラ)を誦へると、不思議にも笈仏の白毫より、光明が光り輝いて発生して病床を照らせば、たちまち二人の桜姫、ひれ伏してこれを拝んで感涙を流しながら「ああ有難い尊い、今は恨みも晴れた。乞い願いますには安養浄土に導いて下さい」と言って、だいぶ得道の様子なので阿闍梨は、喜んで十念を授けてから、二人の姫の後ろに立ち、声を激しく言った「殻を出て殻に入る。旅舎に宿するが如し。地水火風ひとたび散ず、螃蠏(ほうかい・蟹⦅かに⦆の別名)の湯に落つるが如し。汝従来是(これ)一か是二か」と言いながら珠数を持って、まず左の方の桜姫の頭を打つと、たちまち姿が消えて一匹の小蛇となり、頭より光を放って飛んで消え失せた。
 また右の方の桜姫の頭を打つと、今まで嬋娟(せんけん・艶やかで美しい)とした花の姿は、たちまち氷が朝日に溶けるように消え失せて、身に纏っていた小袖と一体の骸骨のみが褥の上に残った。桜姫が絶世の美女と言っても、骨となっては他の人と変わらなかった。
 思ってみると醜美はただ臭い皮一枚にあるだけで、好色の奴らは、これによってさとるべし。
  さて皆はこの有様を見て驚いたり悲しんだりして、しばらく黙っていたが、弥陀二郎道心が進み出て言った「自分は、十八年以前に回国修行に出て、丹波の国大江山の麓で、女の屍より犬がくわえ出した胎児を拾い取ったが、旅の途中で養育が思うように出来ず、一人の旅の僧が、自分が修行僧の身で赤子を連れているのを不思議がり、仔細を問われたので、しかじかの事を語ると、たいへん哀れに思って「小児を私に与えなさい、私が養育して成長した後徒弟にして、その母の菩提を求めさせよう」と申されたので、幸いな事だと思い小児を旅の僧に与え、その後どうなったかは知らなかったが、思ってもみなかったが、あの屍は玉琴殿、小児は殿の御胤、旅僧は清水の敬月阿闍梨、清玄法師はあの小児で、姫君とは腹違いの御兄弟であったとは。それと夢にでも知っていれば、するべき事もあったのに、誤りとは言いながら清玄法師を自分の手にかけて後悔する」と言いながらこぶしを握って嘆げくと、阿闍梨は言った「そんなに嘆くな。清玄の一生を思うと、お前の為に生きてお前の為に死んだ。これは因果によるものであり、お前がしでかした事ではない。こうなった以上はただ、あの人達の菩提を弔うにまさることはない」と珠数を爪繰り念仏を唱えていた。
  野分の方は終始物を言わず、ただうつむいて死人の如く、身じろぎもせずにいたが、十八年の間人に知られずに隠していた悪事、ほんの一瞬で露見して、さすがに大胆強気の心にも名誉を無くして、自分の居間に行って自害しようと思ったのであろうか守り刀を取り、つと立って庭づたいに駆けて行った。ちょうどその時晴天が突然曇って、大雨が車軸の様に流れ、電光が煌々と閃き雷鳴が大きくなり響き、野分の方の頭の上に、炎の塊が落ちかかて見えたが、身体が宙に引き上げられ、二つにサッと裂けて、大地にドッと落ちた。皆人はこの光景を見て身の毛をそばだたせたが、見る見るもとの晴天となった。
  この時阿闍梨が示して言った「後漢の遠紹の妻、夫が死んでその愛妾五人を殺し髪を切って顔に墨を塗ってその姿を変えた。于寶の母、夫が亡くなると寵愛の侍女を、生きながら夫の墓の中に埋めた。こういった類の嫉妬深い女がいたが、野分の方の隠悪の様なのは未だに聞いた事がなく、真にこれは極重悪人というべきだ。天罰を受けて雷死(かみなりにうたれて死ぬこと)したのは道理である。和漢(日本や中国)の昔を考察すると、隠悪を犯した者が雷死した例は少なくない。ことわざに人をば欺くべし、天おば欺くべからずと言う。明るい所には王法があり、暗い所には神霊があり(世俗界では為政者による法律が有り、精神界では神の徳が有る)、隠悪を犯しても、決して上手く罰を逃れられない。せめて冥途での苦しみを救ってやろう」と、庭に降りて立ち、焼け爛れた屍に向かってしばらく経を唱えて、それから宗雄に告げて棺を作らせて、野分の方の亡骸と桜姫の遺骨を納めてさせ、二つの棺を並べて置いて、引導(死者が悟りを得るように法語を唱えること)の語を与えれば、家中の男女は、次の間に居て嘆き悲しむ声がしばらくは止まらなかった。
  こうして二人の葬送を行い、追善の仏事を行って終わるまで、阿闍梨は弥陀二郎道心と共にこの館に逗留した。
 そして宗雄は、田鳥造酒丞、篠村八郎の二人を近くに呼んで言ったのは「舅(しゅうと)義治殿がまだ生きていた時に、私を桜姫と結婚させようと決めたのは、結局血筋を絶やさないようにする為で、桜姫が居なくなってしまったのでは、私がこの家を継いだ時は、たとえ後妻を迎えて一子が産まれても、この家の血筋は絶えてしまうのが道理である。以前から聞いていたが義治殿の甥である少年を、吉備津の神主の額田何某(なにがし・だれそれ)とかに養子に出したが、そこに今は実子が産まれたようだ。良いことにその甥である少年をもらい、お前達二人が補佐して当家を継がせなさい。これは血筋を絶やさない良い計略ではないか。私は今から菩提の道に入って、剃髪して僧の衣を着て姿を変えて、舅夫婦、姫兄弟、玉琴達の菩提を弔うと心を決めた。すべての事をお前達二人に頼んでおく。ますます忠誠を尽くしなさい」と言い終わると小鞘巻を抜いて、髻をぶっつり切り払って阿闍梨に向かって「私は以前、法然上人が仏の化身とであるのを聞いて仏を仰ぎ慕う思いが深い、乞い願いますのは上人の徒弟にして下さい」と思い込んでいると聞こえた。阿闍梨はこれを聞いて健気であると思い、すぐに請け合ったので、ついに宗雄、弥陀二郎を伴って館を出て行こうとした。田鳥、篠村はこれを留めるのに言葉もなく、涙と共に送った。

第二十 桜塚楊貴妃桜の来由。
(最終回ですが概略にします {訳者})
宗雄は法然上人の弟子となり源宗法師の名を賜り閑寂(かんじゃく・ものしずか)な地で質素な庵で暮らす。
 田鳥、篠村は十五歳になる義治の甥を連れ戻して家督を継がせる。
源宗法師は庵を訪ねて来た田鳥、篠村に弥陀二郎の宿願である仏堂建立の援助をする事を望む。
弥陀二郎は仏堂建立を成し遂げる。この寺を西方寺と言う。
ある夜、源宗法師の枕元に桜姫の亡霊が現れて「仏堂建立の功徳により親子兄弟五人(桜姫、両親、清玄、玉琴)は安養浄土に生まれかわり、仏壇に供えてあった桜の枝を庭に植えて、これが花を咲かせれば、成仏した証しであり、これで長い別れになるが、再会は極楽浄土になる」と告げる。
源宗法師が夢から醒めると、枕の上に一枝の桜が残っており、この枝を庭に植え、姫と交わした恋文の裏に経文を書いて箱に納めて、姫の終焉の地である小野の里に埋めて塚とする。この塚を桜塚とも文塚とも言う。桜の枝は、根をはって花を咲かせるようになる。
源宗法師は、法然上人の庵で松虫鈴虫と出会い、姉妹の話を聞いて、野分の方と蝦蟇丸の最後を語り、これを聞いた姉妹は両人の為に念仏修行をする。
源宗法師は、上人が亡くなってから、南都に移って、興福寺の庵に住み、あの桜の木を庭中に植えた。大樹になって、春に咲く花をたいへん愛し、終日夜でも灯で眺めるので、源宗(唐の玄宗皇帝と同じ音)の愛樹なので「楊貴妃桜」と人々はよんだ。
鷲尾家の後を継いだ甥の義基は、若年であるが聡明怜悧で、文芸武芸に優れ承久の乱で武功を現わして富栄え、源宗法師の妹の楓を妻にして、子孫繁栄して巨万の富をなした。
(曙草紙巻之五終)
 
(図の文言 常照阿闍梨の教化によりて怨霊得脱す桜姫化して骸骨となる)
(図の文言 玉琴の怨恨つぐるによりて野分の方十八年前の隠悪あらわれ雷にうたれ身体くだけて死す天刑遅速ありといへどもかならずむくいありおそるべし)
 
 
(図の文言 伴の宗雄発心して法然上人の徒弟となり剃髪して法名を源宗といふ夢中に桜姫一枝の桜をあたふ楊貴妃桜の来由これなり)
 
(図の文言 義春の甥鷲尾四郎義基と名のらせ田鳥篠村両人補佐して家をつがせ先代に忠義を尽くしたる者等に賞をたまはす)