第四 玉琴の魂魄(こんぱく)胎子(はらごもりのこ)に還著(げんちゃく)す。
さて、あの弥陀二郎は、仏堂建設の為、笈を背負って錫杖をつき、国々を廻る修行者になって、山陰、山陽の国々を巡り、旅の途中で年を越して、すでに建久二年(1191年)の春の半ばになり、帰路を望んで丹後の国に着いた。
ここから故郷の丹波には近いが、罰を受けて国を追い出された身であれば、足を入れることは支障がある。しかし、今は心を改めて以前の非道を悔やんで、後々は一つの功績を立ててかつての罪を償い少しでも大恩に報いようと思う心があれば、大変故郷が懐かしく、せめて土地を歩いて気晴らしをした。
また主君の安否も離れたところから尋ねたく思い、人目をはばかり笠を深々と被って、大江山を超えて、穴穂の観音堂(穴太寺・あなおじ)に一晩過ごし、翌日未明に出発して,谷川の流れを眺めて少し休んでいた。
その時、小笹の茂みの中から、赤子の泣く声がしきりに聞こえた。弥陀二郎は不審に思い、立ち上がって寄って見れば、一匹の犬が赤子の襟首を咥えて、今にも食い殺しそうな勢いである。可哀そうな事だと思って、いそいで錫杖を取って犬を追い払い、赤子を取り上げてみると、玉のような男子である。胎児を包んでいる膜が付いたままで、全身血に染まっていて、生まれたままと見えた。襟首に犬の歯形がついて、命を保てるようには思えないが、声は大きく泣いた。
その時、小笹の茂みの中から、赤子の泣く声がしきりに聞こえた。弥陀二郎は不審に思い、立ち上がって寄って見れば、一匹の犬が赤子の襟首を咥えて、今にも食い殺しそうな勢いである。可哀そうな事だと思って、いそいで錫杖を取って犬を追い払い、赤子を取り上げてみると、玉のような男子である。胎児を包んでいる膜が付いたままで、全身血に染まっていて、生まれたままと見えた。襟首に犬の歯形がついて、命を保てるようには思えないが、声は大きく泣いた。
どんな者の捨て子なのか、憐れむべき事に思いながら、なおその辺を見渡すと、谷川の岩の間に、生々しい死骸が横たわっていた。 眼を凝らして良く見ると、長い黒髪を乱し、女の死骸と見えたが、顔の皮は剥がれて、目、口、鼻の痕跡も恐ろしく、正視できない状態である。それだけでなく、腹部が裂けて、内臓が飛び出して散乱していた。
弥陀二郎は思った「さてはあの犬はこの死骸を食い破って、胎内にいた子を咥えて引き出したのだろう。顔の皮を剥いだ上に、咽喉に刀を刺し通した傷がある。衣服を剥いで全裸としたのを考えると、山賊の仕業かも知れない。ああなんと無残な事か」せめて子供を助けようと懐に抱いて、肌に付けて温めるが、すでに氷のように冷たくなって、ますます可哀そうに思った。
弥陀二郎は思った「さてはあの犬はこの死骸を食い破って、胎内にいた子を咥えて引き出したのだろう。顔の皮を剥いだ上に、咽喉に刀を刺し通した傷がある。衣服を剥いで全裸としたのを考えると、山賊の仕業かも知れない。ああなんと無残な事か」せめて子供を助けようと懐に抱いて、肌に付けて温めるが、すでに氷のように冷たくなって、ますます可哀そうに思った。
その時一陣の冷風がサッと吹いて、木の枝を鳴らし、川の水を動かし、奇怪なことに、あの死骸の傷口より、燃え盛る一塊の心火(人魂・怨念により人の体から抜け出た魂))が飛び出して、弥陀二郎の懐の中に入り、身体の中がゾッと冷えたと感じたが、たちまち赤子が生き返って再び泣き出した。
弥陀二郎よくよく考えて「あの女性は咽喉を突かれて、間違いなく苦通のあまり、精神も苦しみ乱れたであろう。それだけでなく、水の中で胎内も冷えたであろう、その腹の中の子が、このように生存できるのは不可能。今の不思議を見ることも、あれといい、これといいまったくあの女性の死の苦しみの中にも、胎内の子を思う一念が深く、魂魄(こんんぱく・死者の魂)がこの子に還著(げんちゃく・もとにもどる)して、一命を保ったのに疑いない。私がこの子を養育すれば、これ以上の善根(ぜんごん・善い行い)はないだろう、どこの誰だか知らないが、偶然私の目に留まったのは、前世の深い縁であろう。この様に刀で身を斬られて、犬に死体を食われるなど、この世の地獄である。悲しい、悲しい」と言いながら、その辺の土を掘って死骸を埋めて、一塊の石を置いて仮の墓標として、鉦を打ち鳴らして「南無新霊頓證佛果菩提阿弥陀仏(なむしんれいとんしょうぶつかぼだいあみだぶつ)~」と唱えて、しばらく供養して、この場を立ち去さり、情けのありそうな人の家に着いて、小児を湯で洗い、乳を頼んで飲ませたりなどすれば、やや元気になって、命は助かりそうに見えた。弥陀二郎はたいへん喜んで、小児のいる家とみれば玄関に立ち、乳を頼んで養った。旅の途中といいながら、男の身でこのように養育する心使いどれ程であるか推し量るべきである。
あの死骸はつまり玉琴の遺体である。大江山の谷川に沈めたが、縛った縄が解けて、この場所に流れ着いたものか、何事であれ、怪奇な事である。
第五 轎(きょう・小さい車やかご)裏書を遺して公連罪を償う。
さてまたあの玉琴を奪われた夜の、篠村の屋敷での詳しい出来事は、その時ちょうど篠村八郎公連(きんづら)は、重病で寝込んでいて歩くこともできず、一人息子の二郎公光(きんみつ)といって、今年15歳になる丫角(角髪つのがみ・あげまき・子供の髪の結い方)の若者は、父の病の祈祷の為、出雲明神に夜通して家に居らず、折も折、時も時、あってはならない事に、この夜にかぎって、玉琴を奪われたのは、まことに運命がつきる限界であった。親子の内一人でも、出会っていれば、どうして簡単に奪われるものではない。思うに、野分の方は悪知恵の深い女であれば、かねてより隙を窺って奪わせたのであろう。
その夜腰元達が「盗人が入った、皆起きなさい」と呼ぶ声を聞きつけて、篠村八郎は勇気のある逞しい老人であるので、すぐさま太刀を取って、よろめきながら、新に造った部屋に、急いでいって見るともはや賊は玉琴を奪って、逃げうせたあとである。八郎は大変驚いて「悔しい、残念、自分が重病でなければ」と言って、歯噛みして、拳を握り締めて怒ったが、病に気力が弱まっていたので、すぐに気絶して倒れた。腰元達は慌てふためいて、側によって薬など服用させて介抱して、ようやく気付けば、病床に扶助して寝かせた。
二郎公光はこの事を知らず、夜明けになって家に帰ったが、この事を聞いて驚いて、自分で家僕達を従えて、四方に奔走して、その日が暮れるまで賊の行方を捜し、ほとんど身体が疲れ果てて、ひとまず家に帰る途中で、同じ家中の武士、田鳥造酒丞美長(たとりみきのじょうよしなが)と言う者が、女性の乗り物を守護して来るのに行き会った。
二郎公光はこの事を知らず、夜明けになって家に帰ったが、この事を聞いて驚いて、自分で家僕達を従えて、四方に奔走して、その日が暮れるまで賊の行方を捜し、ほとんど身体が疲れ果てて、ひとまず家に帰る途中で、同じ家中の武士、田鳥造酒丞美長(たとりみきのじょうよしなが)と言う者が、女性の乗り物を守護して来るのに行き会った。
その時、造酒丞は二郎公光だと見ると、近づいて行って話した「よい所であなたと会った、今日主君義治公が、京都より帰舘して私を呼んで、命じられた一件は、玉琴殿、御胤を宿して、もう臨月に近い。いつまでも、隠して置くべきではないと近日あらためて、野分の方を始め家中の者に御披露なさる事とした。それについて、玉琴殿を宮脇村の下屋敷に引き取りなさいと、私に命じられた。それで、あなたの屋敷に参って、この様に玉琴殿を迎えて、下屋敷に送るところです。お父様の八郎殿が言われたのは、自分は重病なので、歩くことが出来ないので息子の公光をを代わりとして送りたいと思うが、運悪くよそへ出かけている。もし途中で出会ったなら、一緒に連れていくように言われた」と話した。
公光これを聞いて大変不思議に思い「誰が、玉琴を取り返したのだろう」と思うが、父の言葉になんと言って良いのか分からず、うかつに聞返すこともできず、しかたなく一緒について行った。
ほどなく下屋敷に着いて、造酒丞は指示して乗り物を座敷に上げさせて、戸を開くと、どうしたことか、玉琴ではなく八郎公連が血まみれで、うつ伏せに伏せていた。
造酒丞は寄って、抱いて出して見れば、腹を十文字に切り裂き、すでに息絶えて死んでいた。(この時享年六一歳である)口の中に袱紗(ふくさ)の様な物を含んでいるのは、苦痛の呻きが外に漏れないようにとの気遣いである。まことに驚くべき悲しい出来事である。
皆このありさまを見ておおいに驚いてこれは何故自殺などと、さらに不審は晴れなかった。
公光は途中より、とにかく不安を感じて「場合によっては、自分一人の落ち度といって、腹を切って父の窮地を救おう」と覚悟を決めていたが、付き添ってきてみれば、思いがけないこの様子を見て、目の前が暗くなり、心も正気をうしない悲しかったが、多くの人の前なので恥て一言も話さず、ただうつむいて泣いていた。
義治はこの日、下屋敷にいたが、この事を聞いて奥の間より出てきて、公光に仔細を問おうとしたところが、造酒丞が懐より、一枚の書状を見つけ出して、義治に渡した。
義治は開いて見ると、かねてより用意したのだろう、自筆で書いてある。そばの者に命じて読ませた、その文言の趣旨は
「殿、私を心構えの良い者と思って、多くの人の中から選んで頂いて、玉琴殿を預けさせて頂いたうえに、あの御婦人は御胤を宿して大切な身でありますので昼も夜も心して守護していましたが、はからずも昨夜、玉琴殿を奪い取られてしまいました。私は重病で臥していたとはいいながら、油断した為、少しも弁解する言葉はなく、この様に自殺しました。殿が罰せられるのを待たず、自分勝手に死ぬのは家臣としての道ではないのですが、殿は情け深いので、おそらくは自殺を許して下さらないでしょう。その様な時は、家中の皆に対して、顔向けができないと思い、良いか悪いか命令を待たずに、この様になりました。これは罪を重ねる事になりますが、どうかお許しください。息子の公光は、私の病の祈祷の為、出雲明神で夜明かして家には居りませんでした。その夜の出来事を知りません、何卒(なにとぞ)彼にはお慈悲をお願いします」
などと細かく書いて、最後の切迫した状態でも、子を思う親心を考えさせられて、たいへん哀れ深かった。
「なを、奥の座敷に盗人が落としていった物を拾いましたので、これを証拠として捜査をして下さい」と書いて一緒に添えてあった紙包みを開いて見るとあの尾長の蝦蟇であった。
「なを、奥の座敷に盗人が落としていった物を拾いましたので、これを証拠として捜査をして下さい」と書いて一緒に添えてあった紙包みを開いて見るとあの尾長の蝦蟇であった。
義治を始めとして皆これを聞いて大変驚いて、なを公光に仔細を尋ねると、公光は細かく話したので、それは去年捕らえた、あの婦女子を奪う蝦蟇つかいの賊の仲間の仕業に疑いないと評議した。
義治はそれを終始聞いて、しばらく黙っていて、ただうつむいて、たいへん考え込んでいる様子である。
公光はこれを見て、体中の骨々を砕かれる気持ちがして、やがて脇差を抜いて、腹に突き立てようとした。
義治は声をかけて「それを止めろ」と言えば、造酒丞はかろうじてその刀をもぎ取った。
この時、義治は顔を上げて言った「八郎公連は私の命令を待たずに、自己判断で自殺したのは誤りと思うのに、お前もなを私の許可もなく自殺しようとは、なんの理屈だ。玉琴が賊に奪われたからと言って、いまだに生死はわからない。お前もそう思うなら、しばらく暇を願って、その賊を探し出し、玉琴を取り返して、父の罪を償い、自分の悲しみを晴らせ。若いとはいいながら愚かな奴だ。生きて功績を立てるか、死んで私に背くのか、どっちだ」と声激しく責めれば、公光は一言も返答せず、ただ苦悩の声を出して、恐れ入って伏していた。
義治は、表情には怒りを表していたが、その裏では情け心を隠していて、不幸にして一人の良い家臣を失ったのを、深く惜しんで、密かに涙ぐんでいれば、公光は主君の思いやりを感じて、しきりに涙を流しながら「私は思慮が浅く、そこに気づきませんでした。希望しますのは、しばらくお暇をください。あの賊が、天に路があって上っても、地下に門があって入るか、さらには深淵の底、猛火の中に隠れても、一念を込めた力の真心をもって探し出し、玉琴殿を奪え返して、御心を安らかにいたします」と言って願うと、「ぜひとも暇をとらせる間、心して探しなさい。父の亡骸はこのまますぐに菩提寺に送りなさい」と言いながら打ちしおれながら奥の間にはいっていけば、公光はその後ろを伏して拝んで、感涙で濡れた袖を絞る様であった。
造酒丞は言った「私は先刻玉琴殿を迎えるため、あなたの家に行ったとき、御父上が秘かに言ったのは、実は昨夜、玉琴殿を盗人に奪われて、自分が直に殿に 深く悲しんで、罪をお詫び申しあげる。お迎えの乗り物に私を乗せて、玉琴殿を装って、帰って下さい。この事は息子にも、必ず知らせないでください、と伝えられたので、自殺と察していたが、とても生きて行く気持ちは有る様に見えず、もし受けなかったら、そのまま死んでしまう顔色でした。義理堅い老人であれば、止めようとしても止めないでしょう、せめては心のままに、望みの通りさせて、この結果となりました。あなたの愁傷は、どれほどかと思いやります。こうなっては、早く玉琴殿を奪い返して、目出度く戻られることが御父上の霊への良い供養になりますぞ」と言って、涙ながら慰めれば、公光は悲しくてやるせなく「今日限りと思えば、どうして側を離れられるのか。最後にも会えず、空しく亡骸を送る事はなんという前世の報いなのか」と、女々しい愚痴を言いつつ、むせかえって倒れれば、造酒丞「その嘆きはもっともだが、時間がたっては主君への気遣いもある。私も送る。さあさあ」と準備して、乗り物を担ぎ出して、ついに野辺の送り(葬送)して、夕べの霧に入りまじって、虚しい煙となって果てた。
義治は、表情には怒りを表していたが、その裏では情け心を隠していて、不幸にして一人の良い家臣を失ったのを、深く惜しんで、密かに涙ぐんでいれば、公光は主君の思いやりを感じて、しきりに涙を流しながら「私は思慮が浅く、そこに気づきませんでした。希望しますのは、しばらくお暇をください。あの賊が、天に路があって上っても、地下に門があって入るか、さらには深淵の底、猛火の中に隠れても、一念を込めた力の真心をもって探し出し、玉琴殿を奪え返して、御心を安らかにいたします」と言って願うと、「ぜひとも暇をとらせる間、心して探しなさい。父の亡骸はこのまますぐに菩提寺に送りなさい」と言いながら打ちしおれながら奥の間にはいっていけば、公光はその後ろを伏して拝んで、感涙で濡れた袖を絞る様であった。
造酒丞は言った「私は先刻玉琴殿を迎えるため、あなたの家に行ったとき、御父上が秘かに言ったのは、実は昨夜、玉琴殿を盗人に奪われて、自分が直に殿に 深く悲しんで、罪をお詫び申しあげる。お迎えの乗り物に私を乗せて、玉琴殿を装って、帰って下さい。この事は息子にも、必ず知らせないでください、と伝えられたので、自殺と察していたが、とても生きて行く気持ちは有る様に見えず、もし受けなかったら、そのまま死んでしまう顔色でした。義理堅い老人であれば、止めようとしても止めないでしょう、せめては心のままに、望みの通りさせて、この結果となりました。あなたの愁傷は、どれほどかと思いやります。こうなっては、早く玉琴殿を奪い返して、目出度く戻られることが御父上の霊への良い供養になりますぞ」と言って、涙ながら慰めれば、公光は悲しくてやるせなく「今日限りと思えば、どうして側を離れられるのか。最後にも会えず、空しく亡骸を送る事はなんという前世の報いなのか」と、女々しい愚痴を言いつつ、むせかえって倒れれば、造酒丞「その嘆きはもっともだが、時間がたっては主君への気遣いもある。私も送る。さあさあ」と準備して、乗り物を担ぎ出して、ついに野辺の送り(葬送)して、夕べの霧に入りまじって、虚しい煙となって果てた。
哀れにも儚い身の終わりである。
第六 野分の方季春(きしゅん)桜姫を誕(たん)ず
そうしているうちに、義治は世継ぎが出来て、かねてからの願いが叶ったと喜んでいたものの、はからずも玉琴を奪われ、野分の方の隠された悪事とは夢にも知らず、ひたすら悲しんでいたが、野分の方、計略をやり遂げて心の中で喜び、玉琴の懐妊の様子、そして奪われた事、公連の自殺のことまで、初めて聞いたように振舞って、共に嘆き悲しむ様子をして、かえらぬ出来事をさかんに言いたてて、嘘泣きをすれば「そんなにまで誠意のあるお前に、これまで隠して置いたのは私の誤りであった。はやく打ち明けて、館に置いておけば、このような凶事はなかったものを」と悔やんだ。
これより後、野分の方はなにかと心を使い慰めれば、自然と夫婦の中は以前の様に睦まじくなり、ついに妊娠すると、義治を始め、家中の者の喜びはものすごく、神仏に安産を祈り、臨月はまだかと待ちわびたが、夢のようにその年も過ぎ、建久三年壬子(みずのえね、干支の一つ49番目)三月十日に、玉の様な女の子を産んだ。
義治の喜びは言うまでもない。そしてこの女の子の名前を何とするか、相談したが三月十日、花の盛りに生まれたのであり、さらに桜中納言成範卿の孫であれば、桜という名にするべきと心が一致して桜姫と名付けた。
(この後の桜中納言成範卿の話、頼朝の征夷大将軍の就任、改元などの文章省略)
建久三年より建永五年の十五年の間、鷲尾の家には何事もなく、物語として記述するべき事はない。
(この後の桜中納言成範卿の話、頼朝の征夷大将軍の就任、改元などの文章省略)
建久三年より建永五年の十五年の間、鷲尾の家には何事もなく、物語として記述するべき事はない。
(いよいよ桜姫が登場します、さてどんな展開になるのでしょうか{訳者})
(図の文言 玉琴の魂魄胎子に還着して弥陀二郎にひろひとらる)
(図の文言 篠村八郎公連玉琴をうばわれて分説なく轎裏に自殺して罪をつぐなふ)