桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのさうし) 巻之一 (第三) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

第三 野分の方嫉妬玉琴を害す。
 義治の家臣に、兵藤太(ひょうどうた)という者がいた。生れながらの悪党で貪欲、財宝を見る目は蝿が血を見るようで、一命を失う事すら宝の為に顧みることのないほどの性格の悪い者であるが、野分の方は、かねて心の中に企んで思うことがあり、彼の性質をよく調べておいた。
 さてこの頃、義治は朝廷に貢物を捧げるため、京都に上って留守であるのを幸い、野分の方は兵藤太を奥深い座敷に呼び出し声をひそめて話し「私は、お前の肝が太い性格を見抜いて、密かに申し付けることがあるが何であっても、速やかに受けて、人に漏らさぬように。やり遂げたら、さしあたっての褒美として金百両を与え、なお殿の前をとりなして、後日出世させてやります、もっとも、このことは極秘の大事なので、お前の誓いの言葉を聞かなければ、話せない」と言った。
 兵藤太は百両の報奨金と聞いて、まづ心の中で喜んでそして立ち上がって、座敷の外側に置いていた刀の鞘に刺していた笄(こうがい・小柄)を取ってきて、言ったのは「秘密の事と言われるのは、どんな事か知りませんが、 取るに足りない自分に打ち明けて命じられることは、この私にとっては本望の至りであります。たとえ火の中水の中どの様な苦痛を受けても、どうして辞退するでしょうか心置き無く、お話を聞かせて欲しいです。もちろん言うまでもなく他に漏らすなどと言うことは、たとえ死んでもありません。武士の金打(きんちょう・約束を守ることを示すために金具を打ち合わせること)、これを見てください」と言って、笄を取って、音を立てて打ち合わせれば野分の方は喜んで「その一言を聞いては、疑うことはありません。詳しく話すので聞きなさい」と言って膝を摺り寄せて「お前は、玉琴を知っているだろう。私は彼女を奪い取ってするべきことがある。お前は明日の夜に、篠村八郎の屋敷に忍び込んで、この様に計略して彼女を拉致してきなさい。私はこの座敷で待っています」と、事細かに命じれば、兵藤太は始めて野分の方の本心を聞いて驚いたが、後先考えない奴なので直ぐにうけあい「それはとても簡単なことです。必ずやります。心配ないです」と、何でも無いように請け負えば、野分の方は懐より香箱を取り出してあの蝦蟇を兵藤太に渡して言った「この物は、去年、婦女子を誘拐する盗賊等が、仲間のしるしとして持っていた物であるが、思いがけず私の手に入ったのは、天からの贈り物です。お前が、彼女を拉致した後にこれを落として置いて立ち去りなさい。これはあの盗賊達の仲間と思わせ、後の疑いを受けない為の計略です。全てこの計略はお前一人で実行して、必ず他に人を加えてはいけません。篠村八郎は老人といっても勇気がある逞しい者です。息子の公光(きんみつ)も年若いが武芸の達人と聞く。軽く見て、失敗しないように用心しなさい」と指示すれば、兵藤太は「逐一承知しました」と答えて、庭伝いに立ち去っていくと、野分の方は表座敷に戻って、ただ明日の夜を待ちわびた。
 そして、翌日の夜になったが、春の季節なのに、折しも豪雨と強風で、いつもと違う夜の状況で、兵藤太はこれは都合がよいと喜んだ。笠の下に覆面頭巾で顔をかくし、空の鎧櫃(よろいひつ・鎧をいれる箱)を背負って急いで篠村の屋敷に到着して、前後の門を探ってみると、厳重に締め切っていて忍び込む隙きがないので裏門のそばにある大木の下に身を隠して、しばらくようすを窺っていた。
 ちょうど一人の老人が一つの荷を担いで、蓑傘で雨を防いで「濁り酒はいかがでしょうか飲みませんか~」と呼び声を出して通ってゆく。
 門番の下働きの者が小さい窓から顔を出して「酒かうよ」と呼びかけたが、老人には聞こえずに行き過ぎた。もっと声を張り上げて呼んだが、聞こえないので、門番はいらだって「鈍感な物売りだ、耳が聞こえていないのか」と小言を言いながら、門のくぐり戸を開けて出て「おいおい」と呼んで追いかけていった。
 兵藤太はこれを見て良い機会と喜んで、その後ろに回って門の中に忍び入った。 門番は気付かずに、酒を買い終わって、再び門を閉じた。しかし兵藤太は、庭づたいに奥深く忍び込み、まず逃げ道の状況を確かめて、ようすを窺っていると、向かいの座敷に灯火の明かりがついて、人の声がした。あそこが玉琴の居間であろうと心のなかで頷いて、なお身を隠して夜の深けるのを待っていた。
 春の夜は短く、ほどなく遠い寺の鐘の音が響き、早くも子の刻(ねのこく・12時)になって、そろそろ良い頃だと足音をたてないように歩いて、あの座敷に近づいて窺うと、家の中は皆熟睡していると知って、ただ風雨の音のみで、すばやく縁側の上にのぼり、妻戸(つまど・家の端に設けた両開きの戸)を引き開けて内に入ると、良い香りが部屋中にただよって、燈火が立ててあって明るかった。屏風の中をのぞいてみてみれば、一人の美女が美しい絹織物をかけて寝ていた。
 以前より顔を知っていたのではないが、この様な美人は二人といないので、間違いはあるまいと、飢えた鷹が雀を見つけた気持ちになって、寝具の上から掴み掛って、手早く口に手拭をかませて声を出させず、鎧櫃に押し込んで背負って走り出そうと思ったが、大事なことを忘れていたと気づき、懐よりあの蝦蟇を取り出して捨てて置いて、奥の庭の方に行こうと、庭の間に植えている竹藪の中をくぐって入ったが、そこに巣を造って寝ていた鳥が驚いて鳴き叫ぶのであわてて逃げ道を変えて行くと、腰元どもが寝ぼけ声で「庭の方に人の足音がする。皆眼を覚まして」と呼ぶのに胸がドキドキした。
 日頃大胆でも、なんとか仕事をやり遂げようとするあまり、慎重になった為であろうが、暗さは真っ暗で、ただ夢路をたどるような思いで、かろうじて前に確認しておいた逃げ道に到着して、木を伝って堀の上にぼり、鎧櫃を堀の下に降ろして、自分も飛び降りて、ほっとする間もなく、飛び去るように逃げ去った。
 さて野分の方は、今夜は腰元達に酒を飲ませて酔わせて、いつもより早く引き下がらせて休めさせた。自分も寝室に入り、寝たようにしていたが、ほどなく午前2時の時計が響けば早くも取り決めの時間になったと、燭台を手に持って、寝室を抜け出て、いくつかの間を隔てた奥深い座敷に入り、明かりを付け替えて、蔀(しとみ・格子を取り付けた板戸)の格子を半ばまで上げて待つと少しあってから、兵藤太が鎧櫃を背負って、汗を流しながら、庭伝い来て、合図の咳をしてして返答をまてば、野分の方も金の鈴を振り鳴らして合図を合わせた。
 兵藤太は座敷に上がって、「首尾よくやりました」と言って、櫃を下ろせば、野分の方は喜んで、「お前は良くやった、早くここえ引き出しなさい」というと、兵藤太は、櫃を開いて玉琴を引き出し、口にはめた物をとって突き放せば、玉琴は意識が朦朧として人心地もなく、しばらくして目を開いて、夢のまた夢を見るような感じがして周囲を見て何処かも分からず、金地に絵の描いた障子、朱色の欄干が、眼を射る様に輝き、御簾(みす)の半ばまで巻いた中に容姿の美しい貴婦人が一人いるのを、恐る恐る見ると、氷の様な練絹(ねりきぬ)を着て燃立つような紅の上着を重ねて、袿(うちぎ)の刺繍は目に鮮やかで、はっきりとはしないが、ふちの箔(はく・金や銀の装飾)の光だけが灯火に照らされて煌(きら)めいていた。
 さて野分の方は、しばらく言葉もなく、ただ流し目で見ていたが、しばらくして言った「どうですか玉琴やら、今まで会ったことがないので見知らないでしょうが、野分というのは私です」と言うのに玉琴は驚き、さては、ここは上屋敷かと、初めて知った。
 野分の方は玉琴の様子をみて「あなたはさぞ怪しく思っているでしょうが、少しも気遣うことはない、安心して近くに寄りなさい」と言う、たいへん優しい言葉に、なを不審は晴れず、ただうつむいて口の中で応えて、進みだすのをためらっていたが、兵藤太が後より指で背中をつついて「早くよりな」と言うも、なを苦しくてとにかく後退りした。
 野分の方は気持ちをいらつかせて、御簾の中から手を差し伸べて玉琴の手を掴んで、膝元へ引き寄せて顔をつくづくと眺めて「なんとも美しく生まれた者だ。聞きしに勝る容姿だね。あなたは様々な遊芸を習得して、特に琴の演奏に優れていると聞いたことがある。今夜連れてきたのも実は一曲を聞きたい為です。どうにか一曲演奏して聞かせてください、どうぞどうぞ」と言って、琴を玉琴の前に差し出して望めば、玉琴は水責め火責めにあうよりも苦しく、激しく動悸がして、どのように琴を演奏するべきか、とは言ってもこれを拒否すればどんな悲惨な目に合うかも分からない。
 結局、嫉妬の為に私を捕らえて、辛い目を見せるのでしょうと思い、何事も野分の方の心に逆らわず、憐みを受けて、この場を逃れるしかないと心に決めて涙を落としながら言った「拙い琴の音をお聞かせするのは、たいへん恥ずかしいのですが、お命じになることが重く辞退をするのも恐縮しますので、技量が未熟なのは許してください」と言いながら琴を引き寄せて引き鳴らし、唐の時代の名高い芸妓翆翹(すいぎょう)が作曲した「妾薄命(しょうはくめい)という曲を日本語に訳して、たいへ哀れに歌い、手先は震えて声は泣き声であるが、さすがに妙手の演奏なので、いつもより素晴らしくて、その声は凄風楚雨(せいふうそう・悲しい風と雨)の様で、聞くには哀れを感じさせるが、野分の方はより嫉妬心を増してしまった。
 さて演奏を終われば、野分の方は「実に素晴しい演奏でした。容姿といい技量といい、たぐいまれです。殿が深く愛でなさるのも、当然です。私は、殿に長年付き添ってきて、鸞鳳(らんぽう・鸞鳥と鳳凰{固く契った夫婦の例え})の鏡に姿を並べて、鴛鴦(えんおう・おしどり)の襖に枕をよせて親しみ深かったが、お前を召し使ってから、突然嫌われて、この頃は顔を合わせることもしない。これは皆お前の所為であろう。お前は、寝室の内緒話も、さぞ私の悪口を言ったり、笑い者にしたりしているのだろう。あれもこれも、妬ましい憎らしいと思う心には、宇治川の浪が立たない間もなく、貴船の釘(丑の刻参りに貴船神社の御神木に打った釘)も自分の胸に打つ思いをして、胸の中燃え盛る炎が顔に出て、提(ひさげ・金属製の容器)に入れた水もいくどか泡立つくらいに沸き返へるのを、人に知られないようにしようと耐え忍んで、これまで包み隠してきた心の苦しさ、どれほどだと思うのか。この恨みを晴らすのには、お前の胸を裂いて、内臓を食らっても飽き足らない。ああ憎い、腹が立つ」と言って眉毛を立てて目を吊り上げて、激しくののしって、じっと睨みつけて怒りの顔色。恐ろしいのはもちろんである。
 玉琴は気力も失せて、ただ、恐ろしくて震えて訴えた「あなた様の言うことを聞きますには、全く私が思いもよらない事です、どうしてあなた様を殿に悪くいうでしょうか、それは皆私を憎む人の虚言に聞こえます」と、言い終わらぬうちに「いやいや、お前はもと白拍子だ、多くの人をだまし、嘘を言ってきたので、その舌の剣で私に害を与えようしているのに違いない。殿もまたお前の悪口に迷はされたのだ。報いを思い知らせてやる」と言って、黒くつやのある美しい髪を掴んで引き倒して、額を畳にこすりつければ、額の皮は破れて血を流した。
 さて兵藤太に向かって「この女をなぶり殺しにして、苦痛を与えなさい」と突き放せば、兵藤太は氷のような刀を抜いて斬りかかった。
 玉琴はひらりと身をかわして、危ない刀の下をくぐって逃げようとするのを、兵藤太は髻を掴んで引き戻し「おろかだなお前、網の中の魚、籠の中の鳥どうにも逃げる道はない。野分の方様の恨みの刃を思いしれ」と刀を目先に差し出して追いまわされれば、玉琴は身を縮めて「現在私の胎内には殿の御胤を宿して、八ヶ月に満ちましたので、五体も整っています。私の命は惜しくありませんが、腹の子を暗い所より暗い道に迷わせて、賽の河原とやらで、地獄の苦しみを受けさせる事はかわいそうです。いかなる前世の悪縁で、私の腹に宿たのでしょう」と口説きたてて、涙を瀧の様に流して「せめて産み落とすまで、命をたすけてください、慈悲を情けを、なんとかああ!」と言いつつ追いまわされ、身を逃れるようと騒ぐたびに、着物についた蘭奢(らんじゃ・香)の香りが鼻を襲い、あたかも美しくあでやかな芙蓉の花が風に揉まれるのに似ていた。
 ついに無情にも肩先ニ三寸切りこめられて「あっ」と一声叫んでうつ伏せに倒れて、しばし気を失いかけたが頭を上げて「なんと苦しい、堪えられない、この館に慈悲のある人がおりますなら、私の命を救って下さい」と声高く呼んだが、草木も眠る丑三つの頃(午前2時頃)といい、いく間も隔てた深殿であれば、誰も答える者もなく、丁度強い夜風が、庭の木を鳴らすだけであった。
 無残に玉琴は傷を負って、全身赤く染まりながらはい回り、一度は野分の方に向かい、一度は兵藤太の方に向かい、手を合わせて「少しだけ命をのばして下さい」と願ったが、野分の方は答えもせず、ただ笑って心良さそうに見ていたが「もう少し苦痛をあたえなさい」と目で知らせると、兵藤太はその意をさとって、玉琴の襟首をつかんで刀を持ち直して、胸の上にひやひやと押しあてれば、玉琴は苦しく息をついて「それでは、どう言っても殺しますか、殺すならさっさと殺しなさい。この報いがあるかないか、生きかわり、死にかわり、六道四生(様々に輪廻転生する)に仕返しをして、思い知らせてやる」と声も辛そうに呻(うめ)けば、野分の方「ああうるさい、もう殺せ」と命令すると、兵藤太は再び刀を持ち直して、玉琴の喉にぐさりと突き通せば、血潮が迸り、手足をもがいて歯をくいしばり断末魔の苦しみ、目もあてられない様子である。
 その時、奇怪にも、今までほの暗かった灯火が突然あかるくなり、玉琴の長い黒髪がさやさやと鳴って、上に伸びる様に見えて、たちまち蛇と化して野分の方に向かい、鎌首を持ち上げて蠢いた。
 肝の太い野分の方もこれを見て、心底ゾッとして凍えて、少しの間夢でも見た気持ちがしたが、しばらくして意識をはっきりとさせて見てみると、黒髪も灯火も元のままであり、この変化は兵藤太には見えていなかった。
 なんと哀しいことか、なんと痛々しいことか、玉琴は十七歳を最後として、冥途(めいど・死後の世界)の魂となって終わった。
 さて野分の方が命令したのは「この女のことは、この後捜索が厳しくおこなわれるであろう。死体を土の中に埋めても、万一発見されることもありそうなので、大江山に担いでいって、全裸にして、顔の皮を剥いで、谷川の深い所に沈めなさい。衣服は目に付きやすいし、鎧櫃には血がついているので、みなその場で燃やしなさい。後始末を全て終わらせたら、再び来て報告しなさい。私はより安心するであろう。夜の明けぬまに、さっさとしなさい。あの約束した報奨金はここにある」と、一袋の金を見せれば、貪欲な兵藤太はやたらに喜んで、手早く死体を櫃に押し込んで背負って裏門より出て大江山へと急いで行った。
 野分の方は縁先に立ってその後を見送った。何やら心の中でうなずいたが、この時すでに雨はやんで、風は静まり、千歳山の月、霞の上に澄んで、陰はかすかな眺め「なんとあでやかな景色でしょう。朧(おぼろ)月夜にしくものぞなき(並ぶ物はない・新古今集の歌)と詠んだのはもっともなこと」と独り話して、心が落ち着いた様子は、並々の人ではなく、誠にこれは大胆不敵の女である。
  こうして兵藤太は月の光の下で、空中を走る様に進んで、大江山に着いて、玉琴の死骸を出して、衣服を剥いで、顔の皮を剥いて、重しの石を括り付けて谷川に沈め、衣服も櫃も焼きすてて跡形もなくして終わり、ただちに走って帰って深殿に戻ってくると、野分の方は、元の如く待っていた。
 兵藤太は頭を下げて「仰せられたことは、全て念入りにやり遂げました」と言った。野分の方は喜んで「良くやった、早かった。さて約束した通り、当面の報奨金を取らせる」と言って、刺繍をした袋にいれた百両の金を与えれば、兵藤太は押戴いて「僅かな功績で莫大な恩賞をいただく事、ありがたくもったいないくらいに思います」と言って、満面に笑みを浮かべて、懐に納めれば、野分の方はかさねて言った「お前が信頼できると思ったからこそ、この大事を申し付けたのだ。もう夜明けまで間がない、早く帰って休息しなさい」といって、暇をとらせれば、兵藤太はうやうやしく礼をして、膝をついて出て縁側を降りようとした時、野分の方は薙刀を素早く手に取って、兵藤太の右の脇の下をひどく切りつければ、「あっ!」と叫んでうつ伏したのをすかさず、薙刀の柄を短く持ち直して、飛び掛かってばっさりと切れば、首が前に落ちた。
 野分の方はめくった手に鮮血の滴る生首をさげ薙刀を小脇に抱えて庭に降りて、飛び石を伝って寝殿に近づいて「皆の者、盗人が入った。宿直の者達すぐに来なさい」と大声で呼べば、ぐっすりとねていた腰元達も次々と目を覚まして、大騒ぎになって、それぞれ手に明を持って照らしながら集まれば、野分の方は「そんなに騒ぐな。盗人は私が打ち取った。明かりをここに」と言うと、腰元達は明かりを差し出せば、野分の方は切り取った首を照らして見て、たいへん驚いた様子で「私はよそから入ってきた賊と思ったが、これはこれは兵藤太ではないか。私の見間違いか、皆良く見てくれ」と言うと、腰元達は恐々のぞいて見て「そうです兵藤太に間違いありません」と言った。この時、警護の武士達が遅れて駆けつけて集まった。
 野分の方は怒った様子で「家のネズミだったとは、思わなかった。この者、当家から報酬をもらい、少しも不足はないはずなのに、何故に盗みなどするのか。私に厳しく追い立てられて奥座敷に逃げて入ったが、そこて打ち取った。お前たちはそこえ行って、死体を調べてみなさい」と命じれば、警護の武士たちは現場に行って、兵藤太の懐の金袋を見つけ出して、持ってきて差し出せば、野分の方これ見て「これは私が身辺に置いて使う金である、近頃は殿は別宅にのみ居りますので、上屋敷の警戒が疎かになっているだろうと侮って、忍び入ったのに疑いない、忠義に反する奴である」とつぶやき、すぐに湯に入って、衣服を着替えて、ほんの少しの間であるが寝室に入った。
 さて程無く夜が明けて、兵藤太の死骸を片付けて、皆で評議して言ったのは「野分の方は前から剣術を学んでいたが、この事件にあたって、このようなお手並みがあるとは思わなかった。美しい織物にもたとえられるお姿で、このような働きをするとは、誠に珍しい婦人です。美女の中の人は強い男と言うべきでしょう」と感心して、この隠された悪業は誰にも知られることはなかった。
(この後の教訓話しは省略、次回より再び弥陀二郎が登場{訳者})
(曙草紙巻之一終)
(図の文言 鷲尾の家士兵藤太篠村八郎の家に忍入り玉琴をうばひとる)
 
(図の文言 野分の方嫉妬により兵藤太に命じて玉琴を捉へしむ)
 
(図の文言 玉琴最後の怨念により頭髪蛇と化し野分の方にむかひてうごめきのぼる)
 
(図の文言 野分の方後日密計のあらはれんことをおそれ計て兵藤太を殺す)