神田神保町で購入した昭和二年(1927年)に出版の読本集。
小さい活字、古い字体の漢字やかな、江戸時代そのままの文章で注釈なし、江戸時代後期の滑稽本や人情本などは会話形式で記述されているが、読本は文語体なので読み辛い。
それにもかかわらず、1000ページ以上もあるのに読んでしまった。面白かった。
そこで、現代語訳に挑戦してみようと思い立った。
とはいえ、古語は良く知らないし、日本や中国の古典、仏教関係の知識も必用なので、完訳は無理なので意訳抄訳誤訳でやってみる。
10編ほどの小説が収録されているが、その中から山東京伝作「桜姫全傳 曙草紙(あけぼのざうし)」を選んだ。
この小説の現代語版が国書刊行会から出版されているようだが、高価なので未読である。
桜姫と僧侶清玄の話は歌舞伎の題材として古くからからあった。
「東海道四谷怪談」の作者四世鶴屋南北も「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」で桜姫清玄を題材にしている。
こちらもかなり波乱万丈の展開で、特に桜姫のキャラが過激で面白い。
「桜姫全傳」はなんと言っても桜姫の母親の野分の方が凄い。才色兼備で武芸の達人で、そして、その性格には驚かされる。
小さい活字、古い字体の漢字やかな、江戸時代そのままの文章で注釈なし、江戸時代後期の滑稽本や人情本などは会話形式で記述されているが、読本は文語体なので読み辛い。
それにもかかわらず、1000ページ以上もあるのに読んでしまった。面白かった。
そこで、現代語訳に挑戦してみようと思い立った。
とはいえ、古語は良く知らないし、日本や中国の古典、仏教関係の知識も必用なので、完訳は無理なので意訳抄訳誤訳でやってみる。
10編ほどの小説が収録されているが、その中から山東京伝作「桜姫全傳 曙草紙(あけぼのざうし)」を選んだ。
この小説の現代語版が国書刊行会から出版されているようだが、高価なので未読である。
桜姫と僧侶清玄の話は歌舞伎の題材として古くからからあった。
「東海道四谷怪談」の作者四世鶴屋南北も「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」で桜姫清玄を題材にしている。
こちらもかなり波乱万丈の展開で、特に桜姫のキャラが過激で面白い。
「桜姫全傳」はなんと言っても桜姫の母親の野分の方が凄い。才色兼備で武芸の達人で、そして、その性格には驚かされる。
桜姫全傳曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのさうし) 巻之一
江戸 山東京伝 補綴
第一 弥陀二郎網して仏像を得る (1/2)
(冒頭の教訓めいた文章は省略{訳者})
ここに(話の現在)八十二代目の天皇、後鳥羽院の御代にあって、丹波の国桑田郡(くはたごほり・京都府にあった地名)に、鷲尾十郎左衛門平義治(鷲尾義治・わしのをよしはる と省略する{訳者})という人があった。温和な性格で、武芸の業はもろんだが、学門や文芸にも知識があり、侍や従者を多く召し抱え、山林田畑を多く所有して財産は山となって、家は富で栄えていたので、人は皆桑田の長者(富豪)と呼んで尊敬しない者はいなかった。
さて、この義治は五十代桓武天皇の十三代目の子孫、鷲尾三郎経春(つねはる)の長男である。父の経春は、去る寿永年代の年に,九朗判官義経公(源義経)の平家追討のため摂州一の谷の鵯越を落とした時、召集に応じて山路の案内をして、その後もしばしば軍功をあらわし、ついに義経が目をかける家臣となった。その後、義経は兄の右大将(源頼朝)の怒りに責められてあちこちさまよい歩き、ついに奥州(東北地方)に逃れて藤原秀衡をたよった。
その時までも経春は義経に従い共に逃れるが、文治元年四月晦日、義経は衣川館(ころもがわのたち・岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館)で自害した時、経春も討死にを遂げた。
すると息子の義治は、この事を聞いて深く悲しんで、丹波よりはるばる陸奥をくだり、父の遺骨を探し出して帰国し、葬送を行い累七卒哭(るいしちそっこく・四十九日まで七日ごとに追善供養する事と百日目の法要)に多くの名僧を招き、諸天に供養して奉りその霊魂を祭った。
(以下続く)
ここに(話の現在)八十二代目の天皇、後鳥羽院の御代にあって、丹波の国桑田郡(くはたごほり・京都府にあった地名)に、鷲尾十郎左衛門平義治(鷲尾義治・わしのをよしはる と省略する{訳者})という人があった。温和な性格で、武芸の業はもろんだが、学門や文芸にも知識があり、侍や従者を多く召し抱え、山林田畑を多く所有して財産は山となって、家は富で栄えていたので、人は皆桑田の長者(富豪)と呼んで尊敬しない者はいなかった。
さて、この義治は五十代桓武天皇の十三代目の子孫、鷲尾三郎経春(つねはる)の長男である。父の経春は、去る寿永年代の年に,九朗判官義経公(源義経)の平家追討のため摂州一の谷の鵯越を落とした時、召集に応じて山路の案内をして、その後もしばしば軍功をあらわし、ついに義経が目をかける家臣となった。その後、義経は兄の右大将(源頼朝)の怒りに責められてあちこちさまよい歩き、ついに奥州(東北地方)に逃れて藤原秀衡をたよった。
その時までも経春は義経に従い共に逃れるが、文治元年四月晦日、義経は衣川館(ころもがわのたち・岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館)で自害した時、経春も討死にを遂げた。
すると息子の義治は、この事を聞いて深く悲しんで、丹波よりはるばる陸奥をくだり、父の遺骨を探し出して帰国し、葬送を行い累七卒哭(るいしちそっこく・四十九日まで七日ごとに追善供養する事と百日目の法要)に多くの名僧を招き、諸天に供養して奉りその霊魂を祭った。
(以下続く)