昨日は「世界三大美人」を紹介したから、今日は「日本三大美人」を紹介しよう。

 

時代によって、本朝三美人(衣通郎姫、藤原道綱母 、光明皇后)、源平三美人(常盤御前、静御前、巴御前)、戦国三美人(お市の方、細川ガラシャ、松の丸殿)、明和三美人(笠森お仙、柳屋お藤、蔦屋およし)、寛政三美人(富本豊雛、難波屋おきた、高島おひさ)などが知られているね。

 

しかし、時代を問わない「日本三大美人」となると、どうやら、「常盤御前」、「小野小町」、「静御前」となりそうだね。

 

常盤御前

1138年に生まれ、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。

雑仕女の採用の時には、都の美女千人が集められ、予備試験で百名を選び、その中から十名を選んだ。

常盤御前は、その十名の中で聡明で一番の美女であったというから、その美しさは折り紙付きだね。

源義朝の側室として、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産んだ。

一条長成との間にも一条能成や女子を産んでいるね。

 

源氏が敗れた際に清盛の元に出頭した常盤は、子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願した。

その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は、乙若、牛若を助命したとされている。

平清盛が一目ぼれしたんだよね。

この一目ぼれのために、頼朝や義経を殺さなかったんだが、後に彼らに平家が滅ぼされることになったね。

信長だったら、常盤御前が嘆願しても、「かまわん、殺してしまえ!」とか言って、頼朝と義経を殺してしまっただろうね。

そうなったら、平家は繁栄を続け、日本の歴史は大きく変わったことだろうね。


小野小町

日本で勝手に創作した「世界三大美人」にも入っている小野小町は、小野一族である小野篁の息子で出羽郡司だった小野良真の娘とされている。

生まれたのは、現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。

僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、大伴黒主と共に六歌仙と言われており、才色兼備の女性だったんだね。

 

秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるといわれているね。

秋田でも仙北平野には美人が多いとのことだが、たしかに、わしの母校である横堀小中学、大曲高校の同級生の中には、黄色人種とは思えないほど色白で、白人よりも肌理が細かで、目鼻立ちのはっきりとした美人が多かったね。

 

東北地方の日本海側は全国的に見て日照時間が少ないことから、秋田に住む人は紫外線による影響が少ない上に、冬季は積雪が多く、屋内にこもりがちになることも「雪国の人は肌が白い」ことの原因として考えられるとのことだよ。

 

静御前

静御前は、義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻された。

義経と別れ京へ戻ろうとした静御前は、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に山僧に捕らえられ、京の北条時政に引き渡されて、母の磯禅師とともに鎌倉の頼朝のもとに送られた。

 

その年の4月に、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。

静は、

 

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

 

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 

と義経を慕う歌を唄ったね。

これには頼朝は激怒したが、妻の政子が「私が静御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。

 

『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛しているね。

静と磯禅師は京に帰されたが、その後の消息は不明とのことだ。