へたくそな医者のことを藪医者というよね。
怪我をしてもなかなか治らない友人に、
「医者にかかっているんだろう?」
「うん、でも、あそこの医者、藪だね」
なんて会話を良く聞くよね。
落語では、偉そうにしているが、腕はからきしダメな医師を藪井竹庵という名前で登場させるよね。
しかし、岩波文庫「風俗文選」(伊藤松宇校訂、昭和3年10月15日発行)には、次のように書かれているよ。
「ある名医が但馬の養父(やぶ)という所にひっそりと隠れるように住んでいて、土地の人に治療を行っていた。
死にそうな病人を治すほどの治療を行うことも少なくなかった。
その評判は広く各地に伝わり、多くの医者の卵が養父の名医の弟子となった。
養父の名医の弟子と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。」
この名医は「養父の医者」転じて「藪の医者」と呼ばれていた。
つまり、世の中で「薮医者」という表現は、下手な医者のことではなく、本来は名医を現す言葉であったと言っている。
もう少し詳しく書けば、次のようになるよ。
江戸時代、但馬国養父の九鹿村に、長島徳元(とくげん)という医者がいたそうな。
徳元は息子の祐伯(ゆうはく)と瑞得の兄弟をつれて江戸に出て、江戸幕府の大老酒井忠清の知遇を得て、大名を診察する医者として活躍したね。
長島瑞得には、丈庵と的庵(秀世・道仙)という二人の子どもがいた。
兄の丈庵は江戸で旗本の息子として育てられたが、弟の的庵は父の出身地である但馬国養父郡の九鹿村で養父母に育てられたそうな。
的庵の九鹿村での養父は湯浅元友という医者で、的庵の親戚だったそうな。
的庵は成人して医者を継いだが、38歳の時、兄の丈庵が病弱であったことから、父瑞得によって江戸に呼び戻され武士になった。
元禄13年(1700)、長島的庵54歳の時、将軍徳川綱吉にお目見えし、第2代旗本長島家を相続したんだよ。
つまり、但馬国養父郡の九鹿村で農民の病気を治していた村の医者が、後に、江戸城に勤務するようになって将軍の主治医になったんだね。
松尾芭蕉の門人である俳人の森川許六が編纂した「風俗文選」には、昔は名医のことを尊敬して「やぶ医者」と呼んでいたと書いてある。
養父市は名医「やぶ医者」の里なんだよ。
では、どうして名医の代名詞としての「養父医者」は、ヘタを意味する「薮医者」となってしまったのだろうか?
「薮医者」の語源については、様々な説があるが、次の説がもっともらしいね。
「養父の名医の弟子」と言えば、病人もその家人も大いに信頼し、薬の力も効果が大きかった。
当然ながら、「養父医者」は名医のブランドだったんだね。
しかし、このブランドを悪用する者が現れたんだよ。
いつの世も変わらないね。
大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」と口先だけの医者が続出し、「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ、ヘタな医者を意味するようになったとの説が有力だね。
その他にも、語源としては、諺「藪をつついて蛇を出す」(余計なことをしてかえって事態を悪化させる)から来ているという説もある。
「藪柑子(やぶこうじ)」「藪茗荷」「薮連歌」など、似て非なるものに「薮」の字を冠するところから来たとする説もあるね。
腕が悪くて普段は患者の来ない医者でも、風邪が流行って医者の数が足りなくなると患者が押し寄せて来て忙しくなることから、「かぜ(風)で動く=藪」という説もあるよ。
更には、「藪のように見通しがきかない」医者という説も存在するが、これから、藪以下の全く見通しのきかない未熟な医者を「土手医者」と呼ぶこともある。
また藪医者以下のひどい医者のことは、「やぶ医者にも至らない」「藪にも至らない」という意味を込めて「筍(たけのこ)医者」と呼ぶこともあるそうな。
田舎に住んで、占い、呪術、まじないや悪霊祓いなどを職業とする霊能者のことを「野巫」(やぶ)と呼ぶことからきているという説もあるようだね。
語源には諸説あるようだが、やぶ医者と言えば、へたくそな医者だということがわかるよね。