『アランよ、永遠に』アラン・ドロンの生い立ちと小さな私の思い出〜アラン・ドロン考〈前編〉


彼の生い立ちについて読めば読むほど驚き、調べれば調べるほど同情し驚愕し、まるで私は、私自身が、「アラン・ドロン」という名の映画の中に迷い込んでしまったのではと思うほど彼の生い立ちは、複雑で過酷な過去であった。私は、アラン・ドロンのファンであるから、彼の義理のお父さんが精肉業を営んでいたこと位は、知っていた。しかし、アラン・ドロンの実の父親が小さな町の映画館の経営者であることは今回知らなかった…さて、何から、一体どこから書けばよいのだろうか。私自身のことを書く前に先にアラン・ドロンさんの生い立ちを辿ってみよう。


アラン・ドロンの生い立ち



[本名]Alain Fabien Maurice Marcel Delonアラン・ファビアン・モーリス・マルセル・ドロン

生年月日1935年11月8日 

父ファビアン・ドロンFabien Delonは、小さな映画館レジーナReginaを営み、母エディットEdithは、薬剤師であったが、両親は、アラン4歳の時に離婚する。アラン少年は里子に出される。 母は、新しい結婚をしてアランを呼び戻した。しかし、8歳で妹が誕生。母は、妹ばかりを溺愛してアランを邪魔者扱いしたそうだ。また新しい父ポールPaulとは、反りが合わず、彼はネロNereau夫妻の元に里子に出される。しかし、夫妻は彼に温かく接し、後にもアランは本物の家族と思い続けたのだそうだ。 その後も親戚宅等を転々とした後に、カトリック系寄宿学校に入れられたアランは、14歳で寄宿学校を無断で抜け出してヒッチハイクでボルドーに向かい、警察に見つけられる。その他数々の問題を起こし、15歳で放校処分となる。この子には学校は向かないと判断した両親は、今度は、父親の精肉業を継がせようとした。ハムやパテ等の修行を積み、1年後には、ハムのC.A.P(肉屋 の訓練学校の卒業証書、豚肉加工業適正証書)も取得した。父ポールの肉屋で 働き始め、ソーセージ店に就職したそうだ。しかし、せっかく就職をスタートさせたにもかかわらず、17歳の時に、憧れていたパイロット募集の広告を見つけて応募する。そして、海軍に入隊をすることになる。マルセイユ港から貨物船に乗せられると、第一次インドシナ戦争へ従軍するために彼は、インドシナ(サイゴン)へと送られてしまうことになる。(この時、両親は大喜びをしたという。それを知りアランは、またしても、自分を厄介払いできたのだと両親が喜んだと思い込み、両親を憎んだのだそうだ。)さて、彼の実の父親Alain Fabien Delon の経営するReginaという名前の映画館についても、調べてみた。その映画館は、1920年頃から1972年頃まで続き、地元でも人気のある映画館であったようだ。ここで余談で、研究者である私の話になってしまうことを許してほしい。私の小学校(岡山県倉敷市の駅近くの小学校)の通学路のこと。私の通学路には、いかがわしい映画館の前を2箇所も通りながら小学校に通わなければならなかった。3メートル位ある大きな映画の看板は、いつも、大きな映画のポスターには女性の裸体が描かれていた。子供の私がこの看板の前を通り過ぎなければならないことがどんなに苦痛のことだったかわかるだろうか。怖くてその映画館の前を通る数メートルは、その看板を見ないようにいつも小走りで走った。今回、アランドロンのお父さんが映画館の経営者であったと知り、私の脳裏には、何故かそのようないかがわしい映画館なのだろうかと思ったが、調べてみると、そのような映画館ではなかったようだ。良かったと胸を撫で下ろした。私の通学路の映画館の、2つの中の1つは、かつてはきちんとした映画館だった。筆者である私にとっては、中学生の時にアラン・ドロンの「ル・ジタン」が来た。その時は、アランドロンの本当にかっこいいポスターが貼られた。一番に観に行こうと封切りの列に並んで観に行ったものだ。1975年の12月、私は中学2年生のことだった。まさか、この1年と4ヶ月後に偶然という形で、ル・ジタンの主役、アラン・ドロンに会えるなんて想像もつかなかった。さて、少しだけ、アランの父親の映画館の話に戻そう。映画館Reginaは、椅子席1047席を持つ、歴史のあるきちんとした映画館。そのお父さんに4歳で捨てられ、別れなければならなかったアラン少年だったが、そのようなルーツを持ったことは、後にアランがビッグな俳優になるためには大事な点であるだろうと思われる。                【写真の説明】           ①10才の頃のアラン少年 



 ②お母さんとアラン赤ちゃんの頃から笑顔 



③アランの実のお父さんとお母さん 



④アラン少年は本当はお母さんが大好きだった



 ⑤有名になり、お母さんを喜ばせた 





 さぁ、ここまでは、アランドロンさんの17歳までの生い立ちについて書いてみたが、最後に、私がどういういきさつでアランドロンさんに出会ってしまったのかを書いて、前編を終わろうと思う。私が、アランドロンに会ったのは、私が15才、高校1年生の春のこと。私は、岡山県倉敷市を離れて、京都市東山区にある学校を受験、合格した1977年の4月のことだった。私が今まで書いていた寄稿文をそのまま、ここに書いてみようと思う。〈我が青春のアランドロン〉このお話しは何度も投稿しているのですが、最近また新しいお友達が何人も増えましたので投稿しましょう。 ー面白い話 アラン・ドロン今日は、珍しく面白い話、懐かしいエピソードを語ろう。目が荒いが、この画像をよく見てほしい。



 この画像は19〇〇年京都新聞の3面、タイトルは、「キャー、すてき!」忘れもしない。私は、倉敷を離れ京都某女子高校に入学。入学して間もなくの下校時間だった。担任の先生が、大声で叫ぶ。「いいですか、明日阪急電車がストライキになったら、学校は休みですよ。」翌日、学校は休みとなった。学校の寮にいた私と私の友達3人。リーダーの子が清水寺に行こう!と三人は、いざ清水寺に散歩に行くことにした。東山七条から、清水寺へ。私達は、三年坂を登って行くことにした。少し登って行くと、途中に八つ橋屋さんがあった。「可愛いなぁ、あんたら、ちょっと食べて行きよし。」おかみさんの言葉も、急な休みも嬉しく、のんびりと嬉しく生八つ橋を食べていた……とその時、おかみさんが、慌てて、私達に叫ぶ。「あんたら、ちょっと、待っとき。あんな、今、5分位したらな、アランドロンがきはるさかいに。」「ええーっ、アラン・ドロン?」驚いている暇もなく、2分後、私達の目の前に、ベンツが2台滑り込んできた。そして、その1台から、アラン・ドロンが登場、私達にウィンクをしたのである。友達の中で一番驚いたのは、私。小学5年からアラン・ドロンの歌と知らずシングル盤「甘い囁き」を買い、下敷きにアラン・ドロンを入れる程のファンだった。しかし、アランドロンが日本に来日していたなんて知らなかった。やっと高校に入学し、寮の生活になったが、ストライキのお陰で突然、学校がお休みになり、清水寺に初散歩に来たら、目の前に「えっアラン・ドロン?」ひゃ~~~~~~~~~あ~~~~!!~この時、私は、冷静だったのかいや否か?意外に、他の二人より冷静だったようだ。三年坂をずっとずっと登って行く。アラン・ドロンを取り囲むガードマンがかなりたくさんいる。いよいよ登りきった所で、清水寺の下の鳥居の場所にたどり着いた。鳥居の周りは少し広くなっていたので、ガードマンの腕組みの間隔が急に広くなったのだ。「しめた。今だ。」私は、もう、無意識的に走ってガードマンの腕組みの間をくぐり抜けて、アラン・ドロンに飛びついた。「…………………」 しかし、いと嬉しきひとときは、一瞬にしてガードマンにとりとめられてしまった。申しておくが、アラン・ドロン30分の清水寺訪問に300人以上の行列ができていたが、飛びつけたのは、私ひとりだけであったのである。それは、一瞬のことだったと、思っていた私が翌日学校に行ってまたビックリ。心なしか先輩達が、私を見てコソコソしているような……。教室について、悟る。友達が新聞記事を持ってきて私を待っていてくれた。記事のタイトルは、「キャー、すてき。」中央にアランドロン。そして飛びついている女の子の写真がデカデカと上がっていた。女の子は、もちろん私。アラン・ドロンとは、旧友で、「レッド・サン」で共演をされておられた三船敏郎さんも写って下さっている。(笑)(笑)「えー。いつの間に、撮られてたんや。」私の、あの一瞬の幸せは、偶然にも長い間、画像として残り、そして、私がフランス語の扉を開けるきっかけとなって行くことになる。人生、何があるやら…何が起こるやら…である。エトセトラで☆京都新聞3面に大きく掲載されてしまっただけで、もう充分だった私です。何せ倉敷から初めて、親元を離れ寄宿舎生活。朝は6時に起床、門限は17時、4畳半に3人部屋という厳しい生活の中に身を投じていた私。そんな私に神様は、驚きを何度も下さることです。 当時、洋画ファンなら皆、愛読していた洋画月刊誌『ロードショー』7月号は勿論、アラン・ドロンの特集でした。清水寺での写真もあるかもと購入をしました。冊子を開けてまたビックリ。『アラン、まぁー、ここにも…アラン・ドロンの後ろに、泣き出しそうな顔の女の子、私です。恥ずかしいなあ』(こちらは、三年坂の途中が撮られていた) 



 ☆京都新聞記事の切り抜き左側 私右側 アランドロン右端 三船敏郎さん 
 ☆月刊ロードショー表紙超レア物 



 ☆ロードショーの中の写真アランドロンの後ろの泣きそうな顔の私




 さぁ、後編も頑張って書こう。後編にも、またアランドロンと私を繋ぐ新事実に遭遇する。 





 〈私、原洋子のこと〉岡山県倉敷市在住。京都の高校に入学後、すぐに学校 が阪急ストライキで休校になり、 清水寺に観光に行く。そこで、偶 然、かねてからファンだったアラ ンドロンに遭遇する。ガードマンの手をくぐり抜けてア ランドロンに抱きついてしまう。 その様子を京都新聞社に撮られ、 デカデカと載ってしまう。フランス文学科に進み、フランス 語を学び、シャンソンの道へ進 む。1998パリシャンソンコンクールに てファイナリスト。シャンソン、ジャズを歌う。昔話を語る。https://disque-ocean.stores.jp






《後編に続く》
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