「最後の特攻隊員、今、平和の歌を歌う!」(前回ブログのつづき) | マクロビヨーコのブログ

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念願叶って、夫のセミリタイヤを機に2013年6月、夫婦でシンガポールに移住。家族で住んだ5年+4年間の通い婚(シンガポールと日本を行ったり来たり)そしていよいよ、本番スタート!「クッキング」「国際交流」など、その日心に浮かんできた事をブログに綴っています。

お待たせしました!日本語訳完了しましたひらめき電球


Last Kamikaze pilot now sings songs for peace!

「最後の特攻隊員、今、平和の歌を歌う!」

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私も夫も、まさかこんな寒い夜に彼が本当に来るとは

思えなかった。2013年2月25日午後7時前。私たちは

JR鎌倉駅の近くで、寒さに震えていた。しかし、彼はボランティア

メンバーの中で1番早くそこに現れたのだ。


実際、彼らがこの「ピースキャンドル活動」を始めて今月で

ちょうど10年、436回目を迎える。2003年3月アメリカがイラクを

攻撃した直前から「平和の歌」を歌い始めたのだった。


信太正道氏(86)は救われた。戦争は、彼が霞ヶ浦の特攻基地に

向かう電車に乗っている間、1945年8月15日の昼頃に終わった。


約67年前、彼が北海道から、宮城県仙台駅に着いた時、

(当時は、飛行機も少なくなり移動手段は青函連絡船と電車だった)

彼は、仙台市が爆弾と火事によって、ほとんど破壊されているのを見た。

数百人もの人々が、駅前広場のスピーカーの前で呆然と立ち尽くしていた。

誰かが言った。「日本は、負けたらしいぞ・・・」


戦争中、彼は日本が勝つとは思えなかったが、同時に負けるとも

思っていなかった。それ以上、彼には考えられなかったのだ。

当時のほとんどの人々も同様だった。なぜなら、彼らは、日本軍の

支配下にあった政府やマスコミにコントロールされていたからだ。

彼は、あの「軍国教育」こそが、子供たちに何より強い影響を与えた

のだと強調する。戦争中、彼はただ、無謀な特攻隊の攻撃に嫌気が

さして、アメリカ軍がこの戦争をやめてくれたらいいのに・・・と願っていた

のだった。


彼はその時混乱していたので、終戦によって「自分は本当に助かった

のだ」とわかるまでに、まだしばらく時間が必要だった。


本当のところ、彼が「職業軍人から特攻隊員」への道を歩むことに

となったのは、ちょっとした(学力の)腕試しの結果だったのだ。

15歳の夏休み、一人の普通の愛国少年として、当時最難関とされた

「海軍兵学校」の入学試験に、まさか受かるとは思わず、試しに挑戦して

みたのだ。不幸なことに彼はその試験に受かってしまい、その時からもう

後戻できなくなった。(こんなケースは、他にもあったはずだと彼は言う。)

そして、戦争中、2千人もの若く優秀なパイロットがこの「神風特攻」で

亡くなった。


海軍兵学校に入ってほんの数日で彼は自分の選択が大きな

間違いだったことを悟った。ほんの些細なミスをしただけで、顔が

ボコボコに腫れ上がる位、拳骨で殴られた。(例えば、起床→整列する

のに少し遅れただけで・・)彼はその鉄拳制裁を受けた数を数えていた。

驚いたことに彼は今でも覚えているのだが、なんとその数は、

3年で423回、しかもそのほとんどが、最初の1年、初年兵時代に

経験したという。そして、2年後、彼が先輩になった時、彼もまた

後輩に対し、同じことをしたのだった。彼は苦笑してこう言った。

「いやそれ以上、たぶん千回以上は殴ったと思うが、その数は

数えていない」 戦況が不利になって、ますます多くの軍人を手早く

作り上げる必要があった。「やられたパンチの数は死ぬまで忘れなくても、

やった数は覚えていない。被害者と加害者の立場では、こうも違う」



彼は、1945年7月26日、神風特攻の命令を受けた時から、

何度も恐ろしい夢を繰り返し見た。物資不足の為、彼が乗った

ひどくオンボロなゼロ戦が、米国の軍艦に向かって突っ込んだ、

大きな水柱が海から何本も吹き上がる、しかし奇妙にも、彼は

まだ生きている。やったー!嬉しくて飛び上がった。・・でも、それは、

夢だった。70年近く経っても、未だに彼はこの夢を見るという。


特攻基地へ移動する直前、北海道の訓練所に彼の両親が会いに来た。

母親は「特攻を断って」と泣いて頼んだ。しかし、彼にはできなかった。

父親は「こんな状況なら、もう日本は負ける」と言った。


終戦のひと月後、家に帰った彼は中に入ることが出来なかった。

なぜなら、日本が負けたことに責任と申し訳なさを感じていたから。

家の前に立って、外から中を覗いていた。母親は、彼を見つけると

裸足で脱兎のごとく飛び出してきた。そして彼にすがりついて、

大声で叫んだ「生きてる、生きてる!正道が生きてる!!」彼は、

ただ、「日本が負けて申し訳ありませんでした・・」としか言えなかった。

もちろん母親は恥も外聞もなくただ、息子が生きて帰ってきて嬉しかった。

そして「そんなことはどうだっていいのよ・・」と泣いた。


戦後彼は、京都大学を卒業、海上保安庁、海上警備隊(自衛隊の前身)、

航空自衛隊に勤務。その後、JALパイロットになり退職まで30年近く

勤め上げた。


彼が副操縦士だった時、彼が元特攻隊員だったことを

知っていたあるアメリカ人パイロットがこう言った。

「軍隊というところは、どんなに危険な命令でも発令できるのだ。

でも、そこには、兵士にとって、生存の可能性が必ず数パーセントは

残されている。しかし、神風特攻は違う。パイロットは敵に体当たりして、

死ぬことを命令されている。これは、どういう意味かと言えば、この命令を

下した上司は、本当の殺人者なんだアメリカ人のパイロットのこの言葉が、

ようやく彼を目覚めさせたのだ。特攻隊員には、人権など一切なく

彼らは日本軍によって殺されたのだという事実に。


1967年、彼は、神奈川県逗子に引っ越してきたクリスという

米軍牧師・・彼は後に、米国前大統領のドナル・ドレーガンの道徳

アドバイザーとなるのだが・・・に出会った。

クリスは、町の散髪屋で、近所で英語が話せるのは正道だけだと

聞いてきた。それで二家族は大変親しくなり夫々の文化を学び、

互いに多くを教えあったのだ。


1968年の暮、クリス家族は米国に帰国、そして、正道は、飛行訓練の

ためワシントン州へと転勤になった。この送別会は、正道の家で行われた。

クリスは1930年代に彼らの両親が中国で買ったという立派な額に

入ったとても大きいキリスト受難(はりつけ)像の水墨画を記念に

プレセントした。代わりに、正道は、床の間に飾ってあった信太家に

代々伝わる家宝の日本刀をクリスに上げようとした。


クリスは最初その申し出を断った、なぜなら彼は日本刀が「サムライ

精神」を象徴していると知っていたからだ。しかし正道はこう言った。

「自分は神風特攻の際、この刀をゼロ戦に置いて一緒に死ぬつもり

だった。しかし戦争は終わりもうこれを持っている必要はなくなった。

あなたが言うように日本刀が日本人の心を表しているというのは本当だ。

でもそれは、「キリスト受難像の絵」があなたの精神性を表しているのと

同じです。」そして、ついにクリスはニッコリ笑い、彼にそれの磨き方や

手入れの方法を聞いた。



実際の話、正道の祖母は(戦前からの占領地だった)」韓国で

生まれ育ち、戦後家族を連れて日本に帰国した。だから彼は

当時日本が韓国をどのように(高圧的に)支配し、見下してきたのかを

よく知っていたのだった。


今、正道は、こう考える。欧米の人たちが人間としての良心に従って

物事を考え行動するように、日本人も、「上からの命令」に唯々諾々と

盲目的に従ったり、踊らされるのではなく、自分自身で物事の善悪を

しっかり考え行動しなければいけない。かつて、彼自身が「日本が

戦争に負ける可能性」に対し「思考停止」したことを思い出してほしい。

「長い物に蒔かれろ」なんて未開人のすることだ。

国民に正しい情報を与えなかった政府やマスコミの責任も重いが、

何よりも子供たちの「教育」が大切だ。



一方で、彼は、日本が占領していた東南アジアの多くの犠牲者に

対しても、申し訳なさを感じている。


いくら最新の軍備が揃ったとしても、「群衆の熱狂」がなければ、

戦争は決して起こらない。彼は強調した。

もう二度と、決して、笛の音に踊らされたハーメルンの

ネズミや子供たちのようになってはいけない。


彼は今、本当に強く切実に信じている。

「憲法第9条こそが、戦争に対しての防波堤となり得る」


最後に彼は、ニッコリ笑ってこう言った。

「だから私は、今ここにこうして生かされているんです。

私たちが今後、決してあの戦争を繰り返さないために。

(戦地からの帰還兵の多くが口を閉ざしてしまい、私たちもまた、

彼らが語れなかった苦い事実に思いを馳せることがなかった為、

戦争体験が語り継がれず)、あの戦争の本当の話を知らない

若者たちに自分が経験した本物の戦争を語るために・・・」




これは、2013年3月14日、英語ブログ「MY REAL JAPAN」

http://macromacrobiyoko.blogspot.jp/2013_03_01_archive.html

で公開した英語原稿の日本語訳ですが、一部、若い読者向けに説明を

加えています。



.'



2013年2月25日(日)午後7時過ぎ JR鎌倉駅前で

             [サトウキビ畑で][死んだ男の残したものは]

           「We shall ovrcome」など、かつては毎週日曜日、今は月2回、30分間歌う。

              今月で10年・・・継続することの重さに私は圧倒された。


          

信太正道氏(86) 2012年12月12日 逗子市で
私は彼に5回会い、その内、3回インタビューした。
戦後50年、日本ではその戦争体験を口外できなかったというのに、
幸運にも、彼は喜んで話を聞かせてくれた。

          「最後の特攻隊員」は1998年に出版された。

    副題は、「二度目の遺書」(神風特攻命令の直後、彼は遺書を書かされたが

    そこに本心は書けなかった。だからこれは本当の遺書)



軍国少年だった16歳の信太氏
海軍兵学校へ入学時

                  17-18歳 (右上は、家族写真)

                  左下は、任命後、特攻基地に向かう直前のもの。

右上は、20歳、京都大学在学時。

航空自衛隊時代は、米軍教官から飛行訓練を受けた。

(この頃から彼は聖書を読み始めた。)

その後40代で、彼は日本人パイロット養成所の教官になり、
4人乗りの「アクロバットジェット機チーム」をも率いていた。

1986年、JALのリタイヤを間近に。