61歳からのSRS(性適合手術)への道 其の十 | 樹よう子の気ままな絵日記

樹よう子の気ままな絵日記

2023/3/28に性転換し女性になりました。
2017/7/1から「音楽酒場すなふきん」を経営しております。ブログでは、その時その時の正直な気持ちを出していきたいです。

いよいよ本題です。


「女性になりたい」そう真剣に思ったのは新宿二丁目に勤めはじめた頃。
 なんというか仕事明けの朝、電車に乗って車を停めている最寄り駅に向かう。そこからスーパー銭湯へ行く当時、朝9時から開いている入間の「極楽湯」だ。その頃、ほぼ日曜日の朝はそこにいた。
 家庭持ちの女装さんなら理解してくれると思う。お風呂=痕跡を隠す。には最適で元々好きなスパ銭通いを回数増やして色々と誤魔化しに使っていたのだ。いつか自分の部屋を持って自由に女装していたい。と、云うか女性として暮らしたい。そんな思いが強くなってきていた。
 あの頃は性転換手術については深く考えてなかった。借金も沢山あったし、勇気もなかった。そして、女性として生活できる自信もない。さらに云うと家庭を壊してまで性転換しようとは思わなかった。でも、心の片隅には残っていたのだと思う。
 最初はホルモン治療からだった。なんというか、胸がほしかった。ホルモン治療の話は女装業界?でもよく出てて鬱になったり肝臓がやられたり色々弊害があるよって言われてて怖かった。けど、女性らしくなりたいという欲求はおさえられなかった。最初は塗るホルモン。ジェル状のものやパッチもやったが、効果が今一つ感だったので一線を越えホルモン注射をする事にした。個人輸入の錠剤も考えたがリスクが高そうなので病院での注射という選択となった。まぁ、業界では新宿のあの病院は打ってくれるよという所がある~ニューハーフ御用達とも言われていたかな。
 ホルモン治療は人によっては色々弊害を起こす方もいる。おそらく錠剤等々による過剰接種かとも思うが、ホルモン治療でホルモンバランスがおかしくなり自殺とかの話もよく聞く。幸い私は過剰には取らずに病院の注射のみだったのと、ホルモンを打って特におかしくなるという事はなかった。
 ホルモンを打ちはじめて何年目かなぁ、福生の休みの国で出会ったお医者さんがうちで打ってあげるよ。と、言ってくれた。その申し出は凄く助かった。新宿に通うのが二丁目を辞めていたので行くのが大変になってきていたので助かった。そのお医者さんは今では主治医としてお世話になっております。
「すなふきん」をはじめた頃から、またフツフツと性転換なる気持ちが起き上がってきた。女性で生活する時間が増えてきたというのもある。まず自宅には定休日の(月)(火)しか帰らない。(水)~(日)はお店で実は店に寝泊まりしていた。つまり男モードでいるのは昼間の会社の時間だけ。会社が終わればすぐに女子になっていた。車の中に着替えを入れ、車の中は荷物で溢れているという生活(笑)まさに二重生活みたいだったのだ。
 その頃から、もう女子で生きたいなぁ、と漠然と考えるようになり~色々とネットサーフィンをするようになった。
 性転換より簡単な方法はないのかなぁ~とか、俗に云う美容整形系を調べると睾丸摘出はあるが竿を取るといったものがない。単純にタッグして縫いつけるという大きな手術しないでできないのかなぁ、とか、探ってはみたが、そういったものはなく、竿を取るには性転換手術しかないことにたどり着く。
 でも、手術をするという事に対し若干の抵抗があったのだが、それ以上に決心できない最大の原因は金銭的な問題がまず一番。あとは母に対する思い。息子が女になると言ったらどうなるのか。その頃は母にカミングアウトはしてなかった。そして、あることがあって私は女で生きる決心をしたのです。それは、私が二丁目に初めて勤めはじめた時、最初のお客様で来ていただいた「ようこ」さん。彼女とは半年くらい前に池袋のアウルで初めて会ったの。お互い「ようこ」って名乗っていたから、妙に意気投合して盛り上がっちゃった。その時、彼女に
あたし名字をつけようと思っていたんだ。と、話し「樹」という名字をこの頃からつけるようになった。そうね、名前の由来は「よう子」は三浦綾子の小説「氷点」からいただきました。けっこう前から気にいって使っていたのです。「樹」は本名の名前の一部から取りました。ま、私の本名を知ってる方はわかると思います。それは、女子になっても自分は自分。変わらないもの。そんなイメージでした。彼女とは不思議な縁で普段は会わないのに節目節目で必ず会うし、大阪でも偶然会えて飲みに行ったり、なんか他の方とは違う付き合いだった。


 話しは戻ります。あれは平成30年。長いこと連絡を取っていなかった「ようこ」さんが朝霞台の病院に入院してるとSNSの本人の書き込みから知りました。そして「癌」である事を告白。病院では女装して楽しんでると。本人は絶対に治す気でいたし、私も信じていた。その書き込みを見て直ぐにお見舞いに行きました。行くとホントに元気で子供の事や色々と話してくれました。
 しかし、病魔は彼女の命を奪いました。亡くなる二日前に会いに行った時、目は見開き声をかける私を見てるようだけど私を見ていない。もっと遠くを見てる。と、感じ、もう頑張らなくてもいいよ。って声をかけてその場を去りました。そして訃報が来て、私はお通夜に行ったのです。女装仲間も数人来てましたが彼女の家族の事もありみんな男で来ていたのですが、私は女で行ったのです。付き合いの古い私が最初弔辞を頼まれたのですが、流石に喋るとバレるので断りました。お通夜で何よりもショックな事は、当たり前ですが、彼女は男として葬儀をしている。そして、当然ながら彼女が女装していたなんて一部しか知らない。特に彼女の息子さんの学校関係など。だから、そういう葬儀である事が当たり前なのですが、遺影にしろデジタルフレームも最も彼女が嫌がる一番男らしい写真なのです。彼女は女装の事で奥様と別居してました。当然、奥様の怒りもあるでしょう。でも、死に化粧は女性でした。彼女は化粧品メーカーに勤めていたので、その化粧をしても違和感がなかったのでしょう。正に奥様の怒りと優しさを見た思いです。そして、彼女の母上が皆に聞こえないように「ようこ、ごめんね」と呟いていたのです。
 この彼女の死が私の性転換手術への最大の引き金になりました。その時、思ったのは「私は女で死にたい」と。
 気持ちが固まると早いです。美容整形から性転換手術に切り替え、どうしたら手術を受けれるのか。タイという選択肢もあったが、その時点では国内を希望していたので、色々調べると、いくつかの大学病院で手術が受けられると。しかしハードルが高い。大学病院等々では手術はするが、その前段階、診断のプロセスは外部機関に任せる。というもの。つまり、外部機関の精神科医のお墨付きでないと手術はしない。という事。そうしたら指定外部機関の精神科医にまずは通わなければいけない。と、いうことで指定病院を調べると、一番店から近いのが「南浦和」にあった「彩の国クリニック」という心療内科の病院だった。早速、そこに予約を取り伺ったのです。
 病院で最初から「性転換手術」を希望と話をする。最初のうちは良かった。なんか一歩進んだ気がしたのだ。ところが1年通い、2年通い~一向に進まないのだ。3年目にして、初めて自分史を書いて来てください。と、あと、性同一性障害のガイドラインを熟読してください。と、ようやくスタートラインかよ。と、実にそうは思ったが、とりあえず進んだんで良しとしよう。と、心で呟いたのだった。自分史を提出して次回の診察の時に自分がコロナに感染して1ヵ月あけてしまった。この間に何があったか知らないが次に行った時に、「当医院は性同一性障害から手を引く事にしましたので」と言われ~一瞬、頭が真っ白になり「ついては病院を紹介するので続きは其方で~」とか言われてて生返事をして帰ってきたが、フツフツとこの数年は何だったんだろうと怒りが沸いてきてSNSで怒りをあらわにしたら、同じMTFの方からメッセージが来て、診断書を書いてくれる病院を紹介されたのです。
 紹介された病院に行くと話を聞いてくれて直ぐに「性同一性障害」の診断書を書いていただきました。その時に先生から言っていただいたのは「うちの病院に来る時点で相当悩んでいたと思います。診断書を書くことよって精神的な安定をもたらしてくれます。勿論、きちんと見た上ですが、診断書はなるたけ早く書いてあげます。」と、凄く救われました。
そして、先生と話してタイでの手術を勧められたのです。病院にあったアテンド会社のDMを見て連絡を取り、今に繋がっているのです。


 書き忘れてましたが、金銭的な問題は定年退職で退職金というのがあり、そこで解決しています。

 もうひとつの問題はこれから先の仕事です。女性になって仕事はあるのか?それは私が店を持ち、まがりなりにも6年経営しているので何とかなる。という自信もあるので、そこも解決しているのです。

 明日、私はタイに渡航します。

 いよいよ手術が迫って参りました。

 これからのブログは比較的リアルタイムの日記となると思います。


つづく