slide

 slide(なめらかに滑る・滑らせる)名詞は滑走、すべり台など。

また悪化する状況を、なるがままに放置するという意味もある。

I haven’t done my taxes yet. I’ve been so busy with my work that I’ve let everything else slide.

(まだ納税手続きをしていない。仕事でとても忙しくて、他のことは全部ほったらかしにしていた)などと、今の自民党の派閥議員が裏金問題について言い訳しているような例文もある。

 

 SLIDING DOORS という1997年アメリカとイギリス制作の映画を久しぶりに見た。

グウイネス・パトロウ主演の映画。彼女ヘレンは広告代理店のエグゼクティブであり、作家志望の男と同棲している。ある朝、会議に遅刻していくと首を言い渡され、仕方なく帰宅する途中の地下鉄で乗ろうとしたドアが寸前で閉まって乗れなかった場合と、かろうじて乗れた場合の二通りの彼女の運命を描いていて面白い。乗れた時にヘレンにしつこく隣の席の男が話かけてくる。応えるのが面倒な彼女が言ったセリフを前回見たときには Sorry, I’m bad at composition.(ごめんなさい。私会話が苦手なの)とcomposition(作文)を使っていたとばかり思っていたが、今回見直すと、

Sorry, I’m not good at….とヘレンが言うと、その男がConstructing sentences(文章を組みたてることが)という風に言っていた。何という勘違いだったろう。他の映画とごちゃまぜになっていたのか?

 

 ところで、こんなふうに二通りの別な人生になる生き方を想うとき、思い出すエッセイがある。私の大好きな沢木耕太郎氏の「ポーカー・フェース」というエッセイ集の中に、沢木氏が渋谷の道玄坂で呑んでいるときに、カウンターの隣の席に座っている若い男の人が、世の中には自分に似た人が一人や二人いるという話から、自分がとても恵まれた家庭に育ち、一流大学を出、一流の会社に勤めていて、心優しい妻との間に女の子と男の子の二人の子供に恵まれ、これ以上ないという幸せな人生を送っていると話す。しかしこの広い地球に私と瓜二つの人物がいて、彼がおよそ不幸という不幸を引き受けてくれているのではないか、私は私Aであり、どこかに私Bがいる。私がこんなに幸せでいられるのも、私Bが不幸せをすべて引き受けて苦しい日常を生きているからに違いない。自分と自分によく似た誰かとは、幸と不幸の見えないシーソーに乗っていて、一方が上になると他方が下になる。そして最終的には二人の幸せと不幸の総量が同じになり、バランスが取れるようになる。私はこれから、どんどん幸せを失っていくのだと思う。私は頻繁に、どこからか落ちたり、溺れたり、どこかにぶつかったり、切ったりする痛みを覚えるようになりました。もし幸と不幸のバランスが取れないまま私Bに死なれてしまったら、私はひどい罰を受けなくてはなりません。と沢木氏に真剣に語ったという。

 

 物心ついたときから、辛酸なめ子さんだった私は、この話を読んだとき、なぜか、ほっとした。

それは、私Aが悲しんだり、辛い思いをしていたときに、私Bは、ニコニコ楽しく笑って生きていたんだと思うと、なぜか報われた気がしたのだ