人には器(うつわ)というものがある。

今に着目すると、器ごとに入る水の量は異なる。

大小さまざまな器があるが、

大きければよい

というものでもない。

大きな器には大きな役割、
小さな器には小さな役割があり、

そのすべてがこの宇宙のために必要。

器の大小も、その魂の持つ個性のようなものだ。

以前、『アリとキリギリス』のスピリチュアルファンタジーを書いたことがある。
(未出版)

そのテーマは、個性の多様性。

みんなちがって、みんないい。

というものである。

この言葉は、ともすれば、価値の相対化に使われたりもするが、
本来は個性のことを指す言葉。

金太郎あめのような画一的なモデルを量産しようとした戦後の教育方針は、
結果的には生きづらい社会を作り、
多くの自殺者を出すようになってしまった。

戦前はこれまた画一的な軍国主義教育が日本を席巻し、みんなレミングの行進のごとく、戦場に行き、散華していった。

画一的というのはある意味では個性を否定するもの。
非常に危険な教育と言える。

だから、現代においてはサステナビリティ、生物多様性がうたわれるようになり、
ジェンダーフリーやLGBTが声高に叫ばれるが、
その背景には少数者の個性の尊重という趣旨がある。

わたしなども、マンガやアニメで育ったオタク世代であり、マイノリティという自覚があるが、
マイノリティでも大きな器のひとも数多くいるわけで、

個性というのはカテゴリーしにくく、
最終的には一人ひとり個性がちがう、ということだ。

なにが言いたいのかというと、

器の大小は、個性であるけれど、

個性は成長する

ということを言いたい。

固定化された個性があるのではなく、

みんな、魂レベルでは神の子、光の子であり、

宇宙の分け御霊。

宇宙は拡大をし続けている、つまりは成長し続けている。

その意味では私たち神の子の魂も

成長し続ける魂なのである。

よっくる