【辰子と八郎】
田沢潟の近くの村に住む辰子は年頃になり、大層美しい女性になった。
辰子は鏡を見ると、自分の美しさにうっとりしたが、
この美貌も、年をとれば、衰えてしまう。
なんて残酷なことだろう。
まわりの女たちは、そうなる前にと、夫を見つけて子供を産んでいる。
私もそうすべきなんだろうか。
そう思い悩んでいた。
そんなある夜、コンコンと、辰子の家の扉を叩く音がした。
…夜這いかしら?
いぶかしみながら、辰子が窓から様子を伺うと、
大きな男が手になにかを持って、突っ立っていた。
あからさまにあやしいわね。
そう思い、どうしようかためらっていると、
再びコンコンと戸を叩く。
わたしが一人暮らしと知って、やってきたのだとすれば、あぶないひとにちがいないわ。
戸を開けたら、なにをされるかわからない。
無視しましょ。
そうして、聞こえないふりをする辰子だった。
しばらくすると、男の気配は消え、獣の匂いが残った。
様子を見ながら、戸を開けると、そこには、山で獲れた獲物が無造作に置いてあった。
まあ、ひさしぶりにお肉を食べられるわ。
辰子は喜び、獲物を料理していただくのだった。
ふだん、お魚ばかりなんですもの、たまには山の獣のお肉が食べたくなるのよね。
辰子は、獲物だけ置いて去っていった男のことを憎からず思うのだった。
また、来るかしら。
もし来たら、今度は入れてあげようかな。
なんとも現金な辰子なのだった。
それから、しばらくして、
また、夜半に戸をコンコンと叩く音がした。
辰子が窓から外を見ると、この前の男が戸の前に立っているのが見えた。
また、来たんだわ。
また、なにか持ってきたのかしら。
この前のお礼も言いたいし、中に入れなければ大丈夫よね。
そう思って、
どなた?
と戸越しに声をかけた。
大潟から来た、八郎というもんだす。
と、男は答えた。
大潟と言えば、ここから山を7つほども越えたところだ。
人の足で歩けば、七日はかかるだろう。
まあ、そんな遠くから、なんの用ですの?
辰子が問うと、八郎は、
いや、田沢潟にものすげえべっぴんさんがいると聞いてな、一目会いたくなって来たもんさ。
この前来たら、留守だったで、土産さおいてけえっただが、受け取ってくれたかの?
辰子は、はっとして、お礼を言わなくちゃ、と思い、戸を開けると、
まあ、あのときの方でしたの。
その節はありがとうございました。
いただきものはとてもありがたくいただきました。
お礼を言わなければと思っておりましたの。
そう言うと、八郎は、
今日は山で取れたものを持ってきただ。
中に入れてもらえんかの?
と聞いてきた。
相手の下心は少し気になったが、女の一人暮らしにこういう土産物はとてもありがたく、なんとなくいい人そうな感じもしたので、
あら、失礼しました。
どうぞ、中にお入りください。
と、家の中に入れてしまった。
明るいところで見る辰子の美貌に目がくらんだ八郎は、野性を開放した。
狼と兎のような二人の夜は、こうしてふけていった。
それから、八郎は、せっせと7つの山を越えて、辰子のもとへ通うようになった。
月に二度の逢瀬だったが、ふたりの仲は進展した。
やがて、辰子は、身籠った。
十月十日を待たず、赤子が生まれたが、
その子はタツの子だった。
辰子は驚いた。
これは、もしや八郎殿は竜の化身だったのか?
ことの真偽を確かめようと、辰子は八郎が来る日を待った。
八郎は、いつもの通りやって来ると、コンコンと戸を叩いた。
ホギャアと鳴くタツの子。
辰子は、戸を開けずに、
もし、お前様、お前様はもしかして、竜の化身かや?
と尋ねた。
八郎は、ぺちっとおでこを打ち、
さては、見破られたか。
その通り、われは大潟に棲む竜の化身ぞ。
そなたの美しさに惚れて、人間の姿に身を変えたのぞ。
と、答えた。
辰子は、ハラハラと涙を流し、
それで、私が産んだ子がタツの子だったのですね。
竜と契りを結んでしまうとは、わたしはこれからどうすればよいのかわからない。
もう、人里で、この子と暮らすのは難しい。
人間は異形のものはおそれ敬うか、さもなくば、忌み嫌うもの。
この子の姿を見れば、きっと、殺されてしまうでしょう。
と言って、嘆いた。
八郎は、ふむ、と首をかしげると、
ならば、我と来て、我とともに生きよう。
と言った。
どこで生きるのですか?
と辰子が聞くと、
大潟じゃ
と八郎。
それはできませぬ。
人である以上、湖の底では暮らせませぬ。
と、辰子は断った。
ならば、そなたも、竜になればよい。
と八郎。
ええっ、そんなことができるのですか?
と辰子が問うと、
できる。そなたはすでに我より竜の精気を受けておろう。
そなたは、もはや人にはあらず。
竜と人の間のものに変化(へんげ)しつつあるのだ。
な、なんということ。
それでは、わたしのこの美貌も竜のようになってしまうのですか。
とまた、嘆く辰子。
八郎は、
辰子よ。竜は人の姿に変化(へんげ)できるぞ。
どのような姿になるも思いのままぞ。
と言った。
辰子は、
それならば、わたしはこの美貌を持ち続けることも?
と問うた。
しかり。
と八郎。
それならば、と辰子は赤子をかいなに抱くと、戸を開けて、八郎の胸に抱きついて、
では、もう迷いませぬ。
赤子とともに、わたしを連れていって!
と、八郎に懇願した。
承知!
と八郎は叫ぶや、7つの山をひとっ飛びに二人を連れ去っていった。
のちに、辰子は竜として、田沢湖の主となるのだが、それはもう少しのちの話。
どっとはらい