私は歴史物語が好きである。

古代の歴史には解き明かされていない

多くの謎があり、そこにロマンがある。

その中でも、

邪馬台国は神秘のベールに包まれた、

古代日本に実在した謎の国である。

 

同時代に中国にあった魏という国は、

三国志で有名な曹操の打ち立てた国であるが、

その国の歴史書である魏志倭人伝に

邪馬台国から魏の国に朝貢があり、

魏はその返礼に「親魏倭王」の金印とともに

多くの鏡や宝物を日本まで遠路はるばる

送り届けたとある。

魏は曹操の息子の曹丕が漢を廃し、魏を建国し、初代国王となった時代だ。

 

考古学ではこれがエビデンスとなり、

邪馬台国は弥生時代末期の西暦2-3世紀に

日本に実在した国とされており、

これには疑う余地はない。

 

面白いのは天武天皇の指示で編纂された歴史書である古事記、日本書紀(以下、記紀)には

卑弥呼に当たる人物の描写がされていないという点である。

 

記紀には神功(じんぐう)皇后が女王ではなく、女性の摂政として紹介されているが、

息子である応神天皇が即位するまでの非常に長い期間、摂政をしている。

男系の天皇という設定に天武天皇がこだわり、女王として君臨していた神功皇后を摂政と曲げて記録したとも考えられる。

神功皇后は朝鮮征伐に行った伝説の女傑だが、旦那の天皇(ヤマトタケルの息子)は九州の地で謎の死を遂げている。

ちなみに、日本の歴史では女性初の天皇は聖徳太子が摂政をしていた推古天皇からと言われる。

 

天武天皇からすれば、まさか中国の歴史書に邪馬台国の卑弥呼が記録されているなど、想定外だったろう。

歴史書というものは多分に時の為政者に不都合な記録は削除されるものである。

今のようなネット社会ではすぐにバレる隠蔽工作も、当時は当たり前だったと思われる。

 

また、古代の日本には文字がなく、口伝で歴史が伝えられていたことを考えると、情報の正確性には疑問が生じる。

神武天皇は別の人物をモデルに作られたとの説もあるし、ヤマトタケルや神功皇后も架空の人物説がある。

私はそうは思わないが、古代日本の歴史はわからないことが多いので、歴史書に創作する余地は多分にあったと言えるが、本稿の趣旨ではないので、これくらいにしておく。

 

いずれにしても、卑弥呼とは、日本の古代史において、どのような立ち位置の女王であったのか、

非常に関心のあるところである。


 

 

 

 

【私の信じる古代日本史観】

 

私の信じる古代日本史観をここで披露しておきたい。いろんな説のエッセンスを自分なりにつなぎ合わせたものなので、ひとつの解釈としてお読みいただければ幸いである。


 

日本列島は泥海の中から火山活動によって土地が隆起してできた島国である。

周囲の大陸や南国の島々などから多種多様な民族が移住してきたため、

日本人は大陸系と南国系のDNAが入り交じっている。

 

実は、超古代文明として太平洋にあったと言われるムー大陸が海中に没して滅んだ際に、そこから逃れた人々が日本を含む環太平洋に散らばり、

アニミズムを主体とした東洋文明を生み出したという説がある。

 

北米ネイティブアメリカン、

オーストラリアのアポリジニ、

メキシコのマヤ文明、

南米のインカ帝国、

インドネシアやポリネシア、ハワイ、イースター島、

そして、縄文時代の日本。

 

先住民族と言われる人々の価値観にアニミズムという共通性が見られるのは、その価値観の源泉が同じところにあったからだ。

 

日本においても太平洋沿岸にたどりつき、土着した人々が日本の先住民となった。

琉球、アイヌ、熊襲、蝦夷等の人々だ。

神話的に言えば、国津神系。

 

縄文時代の文化の主役は彼らである。

ただし、長く平和な時期の続いた縄文時代に、人々のライフスタイルは素朴な形に変化し、ムー文明から引き継がれた科学は退化し、人類の進化・成長・発展というサイクルから取り残されることとなった。

 

これを打開すべく、霊格の高い魂を持った人々が

九州地方に下生し、鹿児島に高千穂王朝を形成し、発展させた。

それが大和国の前身であった。

これは天孫降臨伝説として、古事記に物語として、書かれているが、歴史的事実にもとづき書かれた創作話であろう。

 

やがて、九州地方を統一した大和国は、本州へと進出し、出雲王朝の国譲り、近畿王朝の国譲りなど、日本各地を支配していた小国を従えて、奈良の地に大和朝廷をひらくにいたるのであった。

 

かような流れからすれば、弥生末期に大和国がまだ九州地方にあることは不思議ではなく、むしろ自然だろう。

 

 

 

【邪馬台国=大和国か?】

 

邪馬台国という漢字は、魏志倭人伝では「邪馬壹国」と表記されているが、どうも「邪馬臺国」が正しいらしい。

いずれにしろ、当て字にすぎないが、

 

 「壹」は「台」と簡略化されるため、

「やまたいこく」と読まれることが一般的だが、

 

「邪馬臺国」が正しいとした場合、「臺」は発音では「と」と読むので、「やまとこく」と読むのが正しいと思われる。

 

同じ漢字が卑弥呼のあとに女王となった臺与にも使われている。

こちらは「壱与」と簡略化されるため、「いよ」と読まれることが一般的だが、

こちらも正確には「とよ」が正しいようだ。

 

また、卑弥呼は、「ひみこ」と読まれるのが一般的だが、

当時の中国の方言では「ひむか」と発音するとの説があり、九州に「ひむか」と呼ばれる地が複数あることもあり、「ひむか」が正しいという説もある。

 

「ひみこ」は「日巫女」、つまり太陽を祀る巫女の意になるし、「ひむか」は「日向」、つまり太陽に向かって祈る意になる。

どちらをとっても太陽信仰を旨とする点は共通である。

 

ちなみに、天照大神は古事記では太陽神と言われるが、正しくは太陽信仰の巫女であり、高千穂国の女王であったという説がある。

太陽信仰はムー文明から連綿と受け継がれてきたもので、古代日本においては根幹となるものであり、その教えは、高千穂国から大和国へも連綿と受け継がれていく。

 

ちなみに、古事記の伝える天照大神は女性の神様であるが、『ホツマツタエ』という近畿王朝の歴史書には天照大神は近畿王朝の王であったアマテルという男性神だと書かれており、古事記派とホツマツタエ派で意見が別れているが、私は天照大神という太陽神を祀る役割の人間がいたと考えている。

役割であれば、時代により女性がやることもあれば、男性がやることもあり、納得がいく。

女性でも高千穂王朝の天照大神とヤマト国の天照大神は別の女性であるが、伊勢神宮に祀られている天照大神は当時はヤマト国の卑弥呼と同一視されていたのではないかと私は考えている。

ホツマツタエについては本稿の趣旨ではないので、別の機会に書くこととしたい。

 


古代日本はアミニズムの文明だったので、太陽や月を神とみて、信仰するのは自然なことだったろう。

 

 

いずれにしても、九州は縄文から弥生へと歴史が移り変わる舞台となった地であり、古来からの神社も数多くある。

一度、ゆっくりと探訪してみたいものだ。

 

 

 

 

臺与からのメッセージ】

 

 

 

不世出のチャネラーであるアマーリエさんが

チャネルされた臺與(とよ)からのメッセージが

ある。(出版社はきれいねっと)

 

そこから少し引用させていただこう。

 

「あの当時の国は、まだ九州地方を中心にした寄せ集めの国でございました。」

 

まことにさらっと、邪馬台国が九州にあったことが明かされている。

実際にそこにいた霊人からすれば、邪馬台国がどこかなんて、論争になること自体、不思議なんだろうなあ。

 

「日向(ひむか)様という、絶対的な権限のもとに多くの武将たちが集まって、ひとつの寄せ集めの、共和国のような形だった」

 

ここで言われている日向様とはもちろん、卑弥呼のこと。

 

「日向様のような女性の、女王様のような方が立たれて(中略)

 「武将たちよ、あなたがたの力を私に貸してほしい」

 という天上界の言葉とともに呼びかけたときに、不思議と国は治まったのです。」

 

卑弥呼は鬼道を用いると魏志倭人伝にも書かれているが、巫女の能力があり、天上界からのメッセージを受け取り、政治を行っていた(神聖政治)ことがここでも明かされている。

古代社会ではこうした政治形態は一般的であった。

 

メッセージの内容をより詳しくお知りになりたい方は是非、ご購読を。

 http://lmr.cc/JPN_publish/book/spbook095.html

 

 

 

【邪馬壹】

 

オマケであるが、『まぼろしの邪馬台国』という本がある。

書いたのは島原鉄道の常務だった宮崎康平さんであるが、失明されてから後の半生を邪馬台国研究に捧げた。

宮崎さんは九州各地を歩き回り、足の裏で邪馬台国までの道のりを喝破され、邪馬台国を有明海の沿岸だったと推定した。

その証拠として、卑弥呼の墓を発見しようと発掘作業を進めたが、志半ばで亡くなった。

その方の物語は『まぼろしの邪馬台国』という映画にもなっており、吉永小百合が奥さんを演じている。

また、さだまさしが子どもの頃から宮崎さんと親交があったとのことで、歌を作っている。

この歌の中で宮崎さんを『めしいた詩人』と呼んでいるのが印象に残る名曲。

この歌を聴くと遠い邪馬台国が身近に感じられるので、是非、聴いていただきたい。