父の死
2014年の一月十日に父が亡くなりました。
朝風呂でほっこりしたまま、あの世へと旅立ちました。
こうと決めたら、まわりの意見を聞かぬ、ワンマンな性格の父らしい最後だったと思います。
自分で死ぬ時を決めて、さっさとあの世へ旅立っていきました。
死とは、誕生の対局にあるもので、肉体は永遠ではない以上、始めがあり、終わりがあるだけで、自然の摂理です。
必要以上に悲しんだり、悪く思う必要はないと思います。
まして、魂が永遠であり、死とは魂が肉体を卒業することと思うならば、死は魂の新たな門出を祝うものであり、祝福すべきものなのです。
おくりびと
以前、『おくりびと』の映画鑑賞会をしたことがあるのですが、泣きどころ満載でした。
お葬式の光景がいろいろ映されるのですが、やはり故人との別れの辛さというものは切実なものがあります。
この世ではもう会えないと思えば、やはり別れのつらさに泣けてきます。
別れに涙を流すのは人間の自然な感情ですが、死が永遠の別れではないと知っていれば、悲しみも少しは和らぐかもしれません。
レミゼラブル
『レミゼラブル』という、スピリチュアルな方には人気のある作品は、映画化されています。どういうところがスピリチュアルなのかと言うと、ラストシーンが天国の描写なのです。
主人公のジャン・バルジャンが家族に看取られて、肉体を離れ、天国の扉を開くと、そこには革命に散った若者たちが明日への希望を笑顔で歌い、ジャン・バルジャンもその中に迎えられていくという、感動的なシーンです。
私は、肉体の死の瞬間に、魂が再生すると思います。
だから、死後の生を受け入れた魂がその喜びを歌うのはよくわかります。
神に永遠の生を与えられていることを知った時、人は自然と神に感謝するのではないでしょうか。
反対に、死後の生を受け入れられないと、この世にしがみつこうとし、迷ってしまいます。
俗に言う幽霊になるわけです。
そういう迷子の霊を出さないためにも、正しい死生観を持つことは重要です。
父の笑顔と、帰ってきたウルトラマン
父のお葬式の時に、私の脳裏をよぎったのは、父の笑い顔と、「帰ってきたウルトラマン」の最終回で郷隊員(ウルトラマンに変身していた隊員)が見せた笑顔でした。
郷隊員は、最後の戦いのあと、ウルトラの星に帰るのですが、それを見送る少年の脳裏に、ありし日の郷隊員の笑顔が浮かぶのです。
もう会えないという切なさ、ありし日の笑顔をしのぶさまは、死という別れに通じるものがあります。
私は、故人の死を見送るのと、ウルトラマンが去るのを見送るのとは、同じだと思いました。
不謹慎かもしれませんが、帰る先があの世なのか、ウルトラの星なのかの違いです。
旅立つものにとっては、魂の故郷に帰ることは喜びでしょう。
残されたものたちには、別れのさびしさ、つらさが残るでしょう。
宇宙の約束
山元加津子さん主演のドキュメンタリー映画に『宇宙の約束』という作品があります。
この映画は、般若心経をわかりやすく解読した映画であり、また映画の主演である山元加津子さんの父の死を扱った映画でもあります。
父がいた頃は、映画の中でのかっこちゃんの父の死は、どこか他人事でした。
今は違います。
リアルな現実として、感じるわけです。
私には、かっこちゃんの父の生前の笑顔が自分の父の姿に見えました。
顔格好が似ていたからかもしれませんが。
なぜ父を親に選んだか
父の遺したものの中に、孫たちに向けた手紙がありました。
自分が戦時中に体験したことを文章にまとめたものですが、非常に貴重なものだと思います。
私たちの世代は、親に戦争体験があり、父のように海軍航空隊の卵として教練を受けたり、母のように空襲で焼き出されたり、おじのように戦闘機から落下傘で降りたり、そういった戦争体験を聞かされて育った世代です。
今の子供たちは、そういう戦時中の話を知らないので、戦争を映画やゲームのようにとらえているのではないかと思います。
今後、日本が再び軍国主義の方向に向かおうとした時に、NOと言える日本人として育てるのは、親の責任だし、戦争を選択しない社会通念を作っていかないといけないなあと思います。
それが父たち戦争を知っている子供たち世代から、私たちが渡されたバトンのように感じています。
父が最後に見た映画は、『永遠のゼロ』だったそうです。
スタジオジブリの宮崎監督の最後の作品も、零戦を題材とした『風立ちぬ』でした。
第二次大戦からすでに七十年以上過ぎています。
私たちはまだまだ歴史から学ぶ必要がありそうです。
我が身のあり方を振り返るために。
谷よっくる