【人生50年】
 
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は「敦盛」の一説で、織田信長が好んで舞ったとされる。
昔は人の一生は長くてもせいぜい50年、あっという間のことだ。
そういう意味が含まれている。
人生のはかなさ、もろさ、むなしさを歌っている。
現代人は長寿になり、平均寿命も70-80年と言われるが、人それぞれ。
私も来年50歳になり、社会の中でもリーダー層になる。現役の年上が少なくなり、
年下が多くなる。人生で学んだ知恵を若者たちに恩送りしなければならない年代。
 
昔なら、もう死んで、あの世に帰っていてもおかしくない。
そう考えると、これからの人生は「一日一生」の思いで過ごさねばならないだろう。
人の明日は誰も保証されていない。
今日の延長に明日があるのではない。
また、過去の延長に今日があるのでもない。
40代の自分と50代の自分は同じ自分ではないだろう。
30代の自分と比べれば、もっと違うだろう。
そんな意味で、私のここ20年を振り返ってみた。
 
20年前、95年は1月に阪神大震災が起こり、5月に地下鉄サリン事件が起こり、
天災と人災が同じ年に立て続けに起こった年だった。
99年の世紀末に人類滅亡の予言がなされていた、その直前期に起こったこの二大事件は世相を大いに反映していただろう。
私は実家の伊丹で被災し、家をシャベルカーで左右に揺らされるような振動を経験し、「こらあかん」と思ったが、幸い、怪我もなく、最小限の被災にとどまった。
あの頃の私は、自分のことで精一杯で、世のため、人のために働こうという気概もなく、悶々とした日々を過ごしていた。
そんな折りに起こった震災の前に、私はなすすべを知らなかった。
震災ボランティアもろくにせず、震災ショックで家にひきこもるような日々だった。
社会に出て6年目の若者だった。
 
その年の8月に辞令が出て、東京転勤が決まった。
私の人生が大きく動いた年だった。
今までとこれからが明確に流れがちがう分水嶺の年だった。
東京に行くことで、それまでの人生の蓄積を断・捨・離した。
人生にはそういう時が来ることがあるものだ。
有無を言わさず、それまでの人生の継続性を断たれる時期。
それまでの人生サイクルを卒業し、新たな人生サイクルに入る時期だった。
 
私の30代はそうして劇的に始まったが、次の変化は結婚だった。
98年より始まった結婚生活は紆余曲折を経て、すでに17年目になる。
3人の神子供をお預かりし、家庭生活は大変ながらも充実。
家庭を持つと仕事も頑張れるのが男性。
仕事も荒波の中を揉まれながらも、失職することなく、今まで続けてくることができたことは感謝している。
家庭と仕事の両立が30代後半での課題だった。
 
40代になる前に9.11のNYグラウンドゼロでのテロ事件が起こり、中東での戦乱が拡大した。
目を疑うような人災であったが、世の中の仕組みが透けて見え始めた時期でもある。
当たり前だと思っていたことが実は真実でないかもしれないという問いかけ。
人間は知らず知らずのうちにいろんなことを信じ込まされているのではないか。
そもそも、自分の五感で確認できる情報など、ごく限られたもの。
他はマスコミ報道だったり、新聞記事だったり、そうした専門家が収集し、公開している情報を事実と認識しているに過ぎない。
では、その情報の中に、誰かが意図的に嘘の情報を忍ばせているとしたら。
時の権力が世の中の支配をやりやすくするために情報操作するのは日常茶飯事なのだ。
そう気づいた時に、では、自分はどうするか。
その問いかけが始まった。
 
世のため、人のために、自分は何ができるのか?
子供達のために明るい地球を引き継ぐにはどうすればよいか?
 
家族を持ったことで、家族のためにどうするか、という思いがわき上がるようになり、自分以外の者のため、つまり、人のために何かをするという、「愛の次元」に生き始めるのだと思う。
 
そういう意味で、家族は基本。
愛を学ぶための日常学校、それが家庭。
 
そうして、家庭、仕事、に加え、三つ目の柱として、「世のため、人のために働く志事」が自分の人跡に加わった。
 
それがまさか「スピリチュアル作家」になることだとは、当時は想像もしていなかったのだが。
 
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