【神風特攻隊のこと】

神風特攻隊のことが頭を離れない。

「永遠のゼロ」を読んだせいもあるが、もともと、神風特攻隊に関しては特別な思いがある。

特攻であの世へ旅立った英霊たち。

彼らの遺書に記された、その精神性の気高さは、どこから来るのか?

昭和の戦前時代というのは、ある意味で日本近代の暗黒期。

日本人の精神性が地に落ち始めた時代だと思う。

明治を切り開いた人々から世代交代のバトンが渡された時、人々は軍国主義へと染まっていった。

ある意味で光と闇の綱引きが、闇側に傾いた時代だと思う。

日露戦争の勝利は、その意味で光と影の境目の意味を持つ。

光は、列強の大国、ロシアを日本というアジア辺境の島国が打ち負かしたという奇跡。
この奇跡は、日本人全体の努力がもたらしたもの。
列強に圧倒的に劣る軍備、特に海軍力を増強するために、日本は国家予算の大部分を戦艦建造に振り向けた。
殖産工業による収益を担保に、莫大な金を借り、国民は貧しさに耐えながら、一生懸命働いた。
短期間での海軍力増強は、国民の苦労の上に達成されたのだ。
そのあたりは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で物語にしてる。

一方で、日露戦争がもたらした影とは、日本全体が自分の国は強いと勘違いし、増上慢となったことにある。

苦労して大成した人の息子は、
たいていドラ息子になる。
本人が苦労を知らぬから、人の痛みのわからぬ人間に、ともすれば、なりやすい。
明治世代の次の世代には、その傾向があるのではないだろうか。
そう、まるで、現代の私たちの世代、「戦争を知らない世代」のように。

禍福は、あざなえる縄のごとし。

いいことと悪いことは、交互にやってくる。

人類の歴史は、まさにその繰り返し。

それは、その時代背景を生きてみないとわからないことかもしれない。

人は、その置かれた環境に大きな影響を受ける生き物。
同じ人間でも、明治を生きるのと、昭和初期を生きるのでは、人生は変わってくる。
それをその時代に生きた人々のせいにするのは酷なのかもしれない。

日露戦争と同様に、高度経済成長にも、光と影がある。

戦後、日本は文字通りゼロからの再出発となった。
アメリカの実質的な属国となり、アメリカの文化を大量に受け入れながら、戦後を生き抜くために、そして、日本が復活を遂げるために、人々は貧しさに耐えながら、わき目もふらずに働いた。

日本が奇跡的な高度経済成長を達成したのは、戦中世代の働きによるところが大きい。
戦争という時代を生き抜いた世代は強い。
ある意味で、戦争という極限状況が、彼らの精神を鍛えたと言っていい。

今日の物質的繁栄をもたらしたことが、高度経済成長の光の面だとするならば、影の面は、日本人が古来から継承してきた精神性がそこなわれたことだろう。

物質的に裕福になると、精神性が下がるという相関性がある。
万人がそうではないが、かなりの確率でそうなる。

もちろん、戦後のアメリカの日本人洗脳政策もあったろう。
戦前の価値観は否定され、国家神道の反動で、日本人は信仰心を失った。

しかし、物質的な裕福さがそれを助長した面もあるだろう。

どんなに洗脳されようと、現実の生活が貧しく、苦しければ、何かおかしいと気づいたのではないだろうか。

物質的な裕福さが、現状に甘んじることを許したのではないか?
そうして、ゆるやかに日本の精神文化は解体されていった。

精神性がもし高ければ、バブル経済という、実態なき虚構の景気に踊らされることはなかったろう。
精神性の低下がバブル経済を生み、その崩壊を招いたのではないか?

そして、その主役となったのは、私たち、戦争を知らない世代ではなかったか?

日露戦争から敗戦へといたる歴史の流れ、高度経済成長からバブル崩壊へといたる歴史の流れ、これは、どちらも、大きな成功のあとには、大きな失敗が来るという、教訓を教えてくれる。

そして、その背景には、その時代を生きた世代の、精神性の問題がある。

これは、おそらく、日本人の問題というよりも、地球人類の持つ業なのではないか。

例えば、バブル経済は日本だけに限ったことではない。
アメリカにおいても、90年代の情報産業のもたらした好景気の先に、不動産投資バブルが発生した。
中国においてもここ数年の経済成長により、にわか成金が増え、不動産投資バブルが発生している。
そして、リーマンショックによる全世界的なバブル経済の大崩壊。
天文学的な数字の、実態なき投機バブルがはじけ、資本主義体制は、実質的に終焉を迎えた。
今の経済回復は表面的なものにすぎない。
世界経済は深く傷つき、今や瀕死の状態。
延命治療により、表面的には永らえているかに見えるが、もはや砂上の楼閣にすぎない。

今や世界レベルで、精神性は地に落ちているのではないか。
世界が泥沼状況の今だからこそ、精神性の復活をめざし、スピリチュアルブームが起こりつつあるのではないか。深く、静かに、目立たずに。
そう、泥の沼で咲くハスの花のように。

そういう意味で、特攻隊の若者たちの精神性の高さを思う時、軍国主義万歳という時代にあって、肉親への愛を大切にする、若者たちの純粋さを感じる。

ただ、彼らの遺書に記されているのは、年相応のレベルをはるかに越える言霊。

まだ、それほどの人生経験を積んでいないはずの彼らが、あれほどの文章を残せたのはなぜか。

私には、それが彼らの魂の気高さの発露であるように思われる。

生まれる前から持っている彼らの魂の気高さが、あの年令を越えた、高き精神性を感じさせる文章を書かせた。
そのように思える。

特攻は、ともすれば、美化されがちであるが、特攻という行為自体には美しさは微塵もない。
ただ、国家のために死を選ぶことを突きつけられた若者たちの気高さがあるだけだ。

「永遠のゼロ」は、そういう点を私たちに伝えてくれる物語。
是非、多くの日本に生きる人々に見てほしい。

特攻に散華した若者たちの死を無駄にしないのは、生きるものの務めなのだ。

よっくる