想いの話し | yokkoのタナゴコロ

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手話&ピアノ弾き語りシンガーソングライターyokkoの日常☆

新しい週が始まりましたね!!
今週も心引き締めて頑張っていきましょう!!!

今日は少し私の考えを…

アーティストとして講演活動をさせて頂くなかで、本当にたくさんの出会いがあります。
この活動をしていなければ知らずに終わっていたかもしれない世界や問題も、出逢う方々から色々学ばせて頂きました。

自分自身本当に狭い視野でしか物事を見れていなかったのだなぁと反省することも度々です。
それでも出会いの喜びは、その問題を理解しようとしたり共に乗り越えたいと思う力になります。

無知であるがゆえに生まれる差別や苦しみを目の当たりにし、何もできないとしてもまずは「知る」ということがどれだけ大切かということを痛感させられる毎日です。

そんななか、先日こんな出来事がありました。

今度の講演で、ある種の人権問題(このblogではあえて内容を伏せさせて頂きます)をテーマに講演させて頂きたいと私たちからご提案させて頂いたのですが、主催者様方の中で意見が分かれて最終的にその問題を取り上げることをお断りされました。

もちろん、意見が分かれるのは当然ですし、そこには何の疑問もないのですが、反対者の方の意見で、私がどうしても納得がいかないものがあるのです。

「うちには当事者がいないから必要ない」

これは本当にそうなのでしょうか?

とてもデリケートな問題です。
理解を求めるために積極的に苦しみや問題を打ち明けることができる当事者もいれば、打ち明けたあとにうまれるかもしれない苦しみを考えてなかなか言い出せず一人で抱え込んでしまっている当事者もいます。

もしかしたら本当にそこには当事者はいないかもしれない。
だけど、当事者が言い出せなくて隠している場合、当事者がいないのではなく、いることを周りが知らないだけです。

例えその場に当事者がいないとしても、今後出逢わないとは限りません。
今後その苦しみを抱えた当事者に出逢ったとき、もし自分や自分の親しい人が当事者になったとき、「なにも知らない。関係ない。」で済ませられるのでしょうか。

皆それぞれ自分の苦しみしか本当に理解することはできないのかもしれない。
変わってあげることもできないし、変わってもらうこともできない。

でも、理解して寄り添うことはできると思うんです。
もちろん、知った上でそれでも理解できなかったり支援できないと自分で感じたのならば、それもまたひとつのこたえです。
そこを否定するつもりは一切ありません。

でも、知ろうともせずに拒否してしまうことだけはやめてほしい。

周りが知ることで解決できることも沢山あるんです。

みんな誰も一人で生きていないし、同じ世界で同じ時を生きています。
互いが互いの命を尊重しあって生きていく。
当たり前のようで難しいのかもしれないけど、時々でもいいから一緒に考える時間や機会をもつことが大切だと思うんです。

私もひとりでは大きなことなんてなにもできません。
だからこそ沢山の方に支えられてきたし、私もそんな方々と一緒に力を合わせて生きていきたい。

だから今回感じたこの想いを発信させて頂きました。

誰もが自分らしさを偽らず生きられる世界を願って…

読んでいただいてありがとうございました。



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