ぶうにゃんには
練習というよりも
鍛錬
という言葉が似合う。
去年のドキュメンタリー
思うようにならない我が手に
苛立ちを隠せず
思わず右足で床を鳴らした時
全身全霊を懸けて尚
儘ならないことが
悔しくてならないのだと
伝わってきた。
出来ていたことが
出来なくなることは
生きていれば
必ずぶつかる壁だけど
徐々に高く厚くなるのでなく
突然
視界を遮る程の壁ができたのだ。
でも
ぶうにゃんは
その壁を
鍛錬で超えようとしている。
自分を信じているんだね。
信じられるポイントが
見つからない私という人間を
本当に情けなく思うけど
努力に勝る天才無し
と身をもって教えてくれる
天才ぶうにゃん。
はて…
長い人生を
流れるままに
逆らうことなく
生きてきた私は
鍛錬など
したことがあっただろうか。
この鍛錬という言葉が
日本刀を作る際の
あの大槌を打つ作業から
きていることに
一層ぶうにゃんとの
不思議なつながりを
感じてしまう。
音楽家のルーツは
イタリアだと以前
インタビューに答えていたけど
清廉潔白なあの姿のルーツは
日本人だと思えて
仕方がない。
ぶうにゃんは
今日も鍛錬を重ねているのだろうか?
あまり
根を詰めすぎないで
練習してくださいね。
ほら
後ろで
最愛の奥様が
手を握りしめて
心配していらっしゃいますよ。
