ワールドカップ決勝戦、ジダンの途中退場の真相が世界中の物議をかもしていますね。
仕事帰り、駅通ったらKIOSKで売ってるスポーツ新聞も見出しはその話題一色。
試合を観戦していた子供に説明がつかない、と評した新聞があったようだけど私はそうは思いません。
ジダンが自分の引退試合とわかっている試合中に起こした行為です。
内容は明らかになっていませんが、ジダンにとって絶対に許せないことを言われたということだけは確かでしょう。
人にはそれぞれに『守り通すもの』っていうのが存在すると思います。
それは人によって異なるだろうけど命だったり信念だったり。
それを傷つける脅威があった時、守る手段を取るのは当然かと思います。
ジダンは自分の『守り通すもの』を守った、それが子供達への説明、それで充分。
「なんで両手で突き飛ばすようなことはしなかったんだろう」
と考えたのですが、恐らく殴りたい気持ちを抑えてあえて手を下ろしていたけど、理性では抑えられないものがあったのではないかと思いました。
サッカーは個人プレーではないし、ワールドカップは国の威信をかけた試合。
それを差し置いて個人的な感情で、それも暴力という形をとっていいかというと答えはNoです。
ただ彼だってそんなことは百も承知なはず。
愛して止まないサッカーの、それも引退を決めたその試合で彼をあのような行為にかりたててしまったのはやはり『守り通すもの』を傷付けられたからに違いありません。
自分にとって『守り通すもの』って何だろう、って考えたときやっぱり最初に頭に浮かんだのは家族です。
家族の事を悪く言ったり、傷付ける脅威があったら私は絶対に許さないと思う。
イタリアのマテラッツィは暴言は吐いていないと言い張っているようだけど、事の真相はジダンとマテラッツィと神のみぞ知るなのかもしれません。
ジダンは恐らく彼が何を言ったか発表しないでしょう。
それは『守り通すもの』をまた傷つけてしまうから。
このマテラッツィに限らず、無意識に他人の脅威となっていまう行為をしてしまう人が多すぎる気がします。
自分がされたらどうか、自分の家族が、友達がそれをされたらどうか、想像力が無いに等しいか、『守り通すもの』を持たないかどちらかではないかと思います。
そんなことにいちいち過敏になってはいけないのだけど、普段いい人だ、と思っていた人がそのような行為をさらっとしているのを見てしまうと私は戸惑ってしまいます。
ものすごく淋しい人なんだなぁ、って思ってしまう。
もっと器用にこういう事をさらっと流したりして見て見ぬふり出来たら、と思う反面、私は不器用でもいいからこういうことにいつまでも敏感でいたいなぁと思います。
じゃないと自分もそうやって誰かを傷つけてしまうかもしれない。