24年前の1月17日 どういう状況だったのか
お姑さんに聞かれたので いろいろ思い出した
わたしは大丸 心斎橋店 催の婦人服で働いていた
遅番だったのに 目が覚めたのは5時20分
(何でこんな時間に目ぇ覚めてもうたんやろ…まぁもう一回寝よ)
ところが全く寝付けない
(まだ5分しか経ってない)
(まだ10分しか経ってない)
などとしているうちに 大きな揺れが!
バっと立って 両親の寝ているところに行き
「大丈夫!わたし立ててるから!」と訳のわからん声かけをした
上町台地に近いところなので 電話が不通以外 ライフラインは大丈夫だった
裏のカトリック教会前の公衆電話から 事務所に電話すると 出勤とのことだったけど
御堂筋線が止まっていたので 乗れば15分で着くところ 市バスで行くことに
なぜか 炊けた3合のご飯を塩むすびにして 1時間半かけて事務所に出勤
課長が「村っちゃん(旧姓 村田)のとこ電話してんけどつながらんかってん 出勤してくれたのに悪いけど女の子は帰ってええって」
「わかりました あっ!これおにぎり 塩むすびですけど どうぞ」
課長「食堂開いてへんし コンビニは何も無いし 助かったわ」
帰りは御堂筋線が動いていたので アッサリ帰れた
テレビは これどないなってるん!?と言った状況
わたしの売場の人は死者0 ご家族も無事だった
被災はしているけど 出勤はできていた
暫く経って 神戸店から 出向で沢山の方が心斎橋店に
同じ部署の同い年の男性は六麓荘
ライフラインが止まっているから 休みは辛い 出勤した方がいいなどと言っていた
出勤したら トイレ困らんし 清水湯(心斎橋OPAの裏にある銭湯)入って 水買って帰れるしとのこと
(お坊っちゃまでも こうなれば一緒やな)と印象に残っている
上町台地は大阪では頑丈な土地
我が家は古い家だったけど 近いところなので
食器ひとつも割れず ものも落ちず
余震は怖くて震度1でも ビクっとした
しかし 被災なさった方々に比べれば 何とも呑気だったと思う
程なく 売り場の先輩の結婚式の二次会で北野に行く途中 電車からの風景に驚愕した
建物がないので 見通しがいい
それだけ 壊れてしまったんだと思い知らされた
酷いことになってるのを実感した
それから1年後 再び北野を訪れた時
今度は復旧 復興の早さに吃驚した
震災前の雰囲気に近くなっていた
関西人の底力を垣間見た
「がんばろう神戸」
ホンマにようがんばりはったと思う
…と言った内容を話した
お姑さんは「そうね」「そうね」「怖かったやろうね」と聞いてくれた
阪神淡路大震災から24年 長崎でもニュースで特集をしていて 気になったよう
夫の母だけど 娘のように接してくれるお姑さん
有難いね
最後までお付き合いいただき ありがとうございます
Love∞♡
長崎で出会った 相槌 野良猫 ジャイコちゃん