福井県敦賀市

金ヶ崎城 
 (かねがさきじょう)

御城印


新たにいただいた御城印上矢印

南北朝・太平記バージョン。



御城印には

「尊良親王・恒良親王」

(たかながしんのう・つねながしんのう)


敦賀にゆかりのある人物です。


真ん中には

「股肱(ここう)之臣」

(主君の手足となる誠実な家来のこと)

という言葉が書かれています


これは、南朝側で彼らと共に戦った

南朝側の指揮官・新田義貞のことを指しているそうです


下には三つの家紋

左から

明智光秀 

ん?真ん中は誰の家紋? 

右は新田義貞










南北朝時代や織田信長が朝倉攻めをした際

古戦場として有名で

「日本の歴史公園100選」に選定されている金崎宮🌸


春には約400本の桜が咲き

お花見の名所としても知られ、日本海を望むこともできます


ですが、もう散ってました😅



金崎宮を通り
金ヶ崎城へいきます

金崎宮の主祭神は
尊良親王と恒良親王



もう桜も散ってました🌸🍃






 

尊良親王(たかながしんのう)

恒良親王(つねながしんのう)


彼らは後醍醐天皇の息子たちです。


天皇家が南朝と北朝に別れ

争った時代を南北朝時代


この激動の時代に生き

悲劇的な運命を辿ることになります



彼らは南朝側

北朝は室町幕府

建武3年(1336年)から建武4年(1337年)

金ヶ崎城で戦いが行われました。


結果は、南朝側が負け

尊良親王は自害し恒良親王は北朝側に捉えられてしまいます。

恒良親王は一説によれば、

捉えられた後に毒殺されてしまい

わずか15歳の短い生涯を終えてしまいます



「精一杯戦った彼らを祀りたい」

という温かい思いから

尊良親王・恒良親王を祀る

金崎宮が生まれました⛩



また

戦国時代には「織田軍」が朝倉攻めの際に「朝倉軍」と対峙した場所としても有名です

浅井長政の裏切りによって起きた

戦国史上有名な信長の撤退戦

「金ヶ崎の退き口」の舞台です。











御城印は金崎宮でいただけます




最後までご覧いただき

ありがとうございました🎵