福井県坂井市丸岡町
称念寺
(しょうねんじ)
御朱印
*山号【長林山】
*院号【往生院】
*寺号【称念寺】
*正式名称【長林山往生院称念寺】
*宗派【時宗】
*ご本尊【新田義貞座像 】
*札所等【/】
*開基 【泰澄】
*創建年【 721年(養老5年)】
*住所【坂井市丸岡町長崎19-17 】
山門をくぐるとすぐに
名前と住所と連絡先を記入し
熱を測ります。
このご時世ならではのこと‼️
縁起によると、
泰澄大師がこの地を訪れ、
養老5年(721)元正天皇の勅願を受け
阿弥陀堂を創建したと記録してあります。
北陸における時宗布教の中心道場として、
朝廷や足利将軍家の祈願所となり、
朝倉家はじめ歴代の越前国主から熱く保護されたそうです。
新田義貞公贈位碑
明智光秀公は弘治2(1556)年
斎藤義龍の大軍に敗れ、
妻の煕子や家族と伴に、称念寺に逃れます。
この辺りは大河ドラマで放送されてましたね

『明智軍記』には、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが記載されています。
称念寺門前に寺子屋を開きますが、
生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。
やがて寺子屋を開いたり
朝倉の家臣と連歌の会を催す機会を、
称念寺の住職が設定します。
貧困の光秀には資金がない中、
連歌の会は煕子の用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉の士官が叶います。
しかしその連歌の会の資金は、
実は煕子が自慢の黒髪💇♀️
を売っていました。
光秀はこの妻の愛に応えて、
どんな困難があっても
必ずや天下を取ると誓ったのです。
この夫婦愛
素晴らしい


江戸時代の松尾芭蕉が
「奥の細道」の旅の途中に訪れ
その後
芭蕉は弟子である斉藤又玄宅を訪れた際、
才能がありながら貧しいため
出世できないと悩む又玄へ
『月さびよ
明智が妻の咄しせむ』
の句をおくり励ましたそうです
意味は
「寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。(あなたのその心掛けは、必ず報いられる日が来ますよ)』
と いうことらしいです‥‥
1563年
お玉(光秀の娘 後の忠興の正室細川ガラシャ)が称念寺の門前で誕生しました。
称念寺は新田義貞の菩提寺でもあります。
新田義貞と称念寺の住職は
古くより交友を深めていたので、
遺骸が運ばれ葬られたのことから、
義貞の墓所もあります。
土産物などを販売する店
「熙光庵(きこうあん)」
二ヶ所ある駐車場は満車🚗
大河ドラマ人気はすごいなぁ

と、出直し
案内の方にいったら、
午前中はお寺の行事をされていたそうです。