浅井長政の長女・茶々(淀殿)が、父の菩提を弔うために、21回法要の時に夫である豊臣秀吉に願って創建した養源院があります
寺号の「養源院」は、長政の法名から付けられました。
25年後の元和5(1619)年に落雷にあい寺院は焼失しますが、2代将軍徳川秀忠の正室となった三女・お江(法名:崇源院)によって再興されました。
現在の本堂はお江によって再建されたものです。
お江によって再興された後、養源院は徳川家の菩提所となり、2代将軍秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されています。
お江と秀忠の位牌をよく見ると、「菊」「葵」「桐」の3つの紋があります。3つの紋を拝見できる寺院は日本でここだけ。
「菊」は天皇家の紋で、お江と秀忠の子、和子が後水尾天皇のもとに入内したことからつけられています。
「菊」は天皇家の紋で、お江と秀忠の子、和子が後水尾天皇のもとに入内したことからつけられています。
「葵」は歴代の位牌がまつられている徳川家の紋。
「桐」は養源院を建立した豊臣家の紋。
貴重ですね!
そして、本堂の廊下には有名な血天井があります。
関ヶ原の合戦の直前に、豊臣方の武将・石田三成が率いる4万の軍勢が、武将・鳥居元忠を筆頭にした約2千の徳川方の兵がいる伏見城に攻め入るという「伏見城の戦い」がありました。
慶弔5(1600)年に徳川家の陣であった伏見城に、約4万もの兵士を引き連れてきた豊臣方の軍勢に破れ、約2,000人いた徳川方の軍は380人余までに減少。伏見城を守っていた鳥居元忠ら380余名は伏見城の「中の御殿」という場所に集まって、自刃し伏見城は落城しました。
自刃したその場所の床板には、その時に流れたおびただしい血が染み付き、何度洗っても削っても、その血の痕は消えません。それを知った家康は彼らの供養として、その床板を外し、「決して床に使ってはならぬ」と命じ、養源院などのいくつかのお寺の天井板として使われることになったのです。
全部で9ヶ所だったかな
あるそうです
以前も、血天井を見に行ったことがあります。
どこのお寺だったか、忘れましたが😅
そしてもうひとつ、有名なものがあります。
それは、杉戸絵と襖絵です。
当時無名だった俵屋宗達が認められるきっかけと
なった作品です。
目の前で、その基地な作品を見ることがてき感動しました
養源院はグループを作り、案内をしてくださる方がいらっしゃいます。
中は全て撮影禁止です
御朱印
唐獅子杉戸図です
正式名(養源院)
本尊(阿弥陀如来)
宗派(浄土真宗 遣迎院派)
創建年(1594年(文禄3))
開基(成伯(伝・長政弟))
住所(京都市東山区三十三間堂廻町656)