今朝出かけた時、たまにすれ違う目の不自由であろう方と付添いの方がいた。

お二人とも、穏やかに寄り添い歩く姿が印象的でした。

 

その後、初めての郵便局に行った時ATMでおじいさんが用を為すのに大変時間がかかっていました。

郵便局の方は師走の忙しく出入りするお客さんに気を使うように介助をしていました、後ろに並ぶ私のことはおじいさんは目に入ってないようでした。

 

私はその時急いでなかったので待ちました。

ひとつひとつの行動が緩やかで郵便局までの道も相当な時間を掛けていると想像が出来ました。

 

振込を済ませて車を出そうとしたところ、おじいさんを見送る郵便局の方も外におられました。

 

 

私、子供の頃から身体が不自由な方を見かけ困ってたらいても経ってもいられず手伝っていたのですが、何故だか涙があふれて止まらなくなります。

自分でも困るくらい。

 

子供心に可哀想だと思っていたのだと思う。

同時に漠然とした不安にも襲われていたと思う。

 

目の見えない世界なんて絶望だ、もし私がそうなったら耐えられない。

年老いたり、身体が不自由な人を見るとあんな風になったら辛いし想像すると怖い。

 

 

だけど大人になり、最近思うのは、見た目の不自由さと本人の幸福度は一致しないということ。

目が見えなくても幸せを感じて生きてる人もいるだろうし、身体が不自由であっても不幸せとは限らない。

他人から見たら理不尽な人生だったり、大病した人を見ると可哀想だと思っても、本人は幸せだったのかもしれない。

 

 

この歳になり、漠然とした恐怖感は取れたように思う。

自分が不自由になっても幸福度は自分で決められるのではと思うから。

 

 

五体満足で幸せそうに見えても愚痴や悪口ばかりの人だっているし。

 

 

本当に人それぞれだ。

 

 



心のお片付けレッスンや、お片付けサポートで色々なお話しをするけど幸せかどうかは自分が決めるもの。

決めていいもの。不幸になるのも自分が決めてるのかと思うこともある。

 

私は今後、心のお片付けを扱うセッションを頑張って行きたいと思っています。

そう言うと何人かから心配をされました。

 

人の暗闇に入っていくのは怖くないの?

それは宗教みたいにならないの?

逆恨みされないの?

依存されないの?

 

そう言われた時に「人はそういう風に見るのだ」と新鮮に感じました。

私は、そうは思わなくて、この考え方の違いはどういうことかと考えて見ました。

 

 

多分、心のセッションを希望する人とは、自分が知ってる範囲での心を病んでしまった人を思い描いたり、メディアのイメージからの偏見じゃないかと思う。狭い視野で何となく怖いと感じているのでは。

私のクライアントさんはみんな真面目で頑張り屋さん。誰だって心の闇はあるでしょう。

セッションは依存性のあるものではありません、何故ならクライアントさんが抱えてる悩みを、自分で癒せるように導いてるからです。

答えは自分の中にあるので、それに気付き、どうしていくかを考える力をつけるお手伝いをすること。

 

私は神様じゃないし何でも解決出来る訳はない、スピリチュアルな力もないですし、依存されても困ります笑

でもセッションして感じるのは皆さん自分で問題を解決していく力がある。

それを引き出すだけなんです。

 

ただ一人では悩みの本質が見えない事が多いので私がアシストするだけ。

最後は私の役目は終了するので依存はないですね。

 

私自身が解決していく力を持てたので必要な方のお役に立てると嬉しいのです。

 

自分で解決出来る事が分かると漠然とした不安を抱えることも減るし、感じたとしても浮上します。

結局よくわからないものは怖いと感じるだけじゃないかな。



こんなに淡々と書き綴る私も1年前は、何十年来の悩みを抱えて途方にくれていました。

人は変われるよ(o^-^o)

これは今の私が感じてる精一杯、正解も不正解もない話しです。