最高裁が旧優生保護法を違憲と判断し国に賠償を命じました。

旧優生法とは、1948年に施行された法律で、障害者を淘汰しようとする優生思想に基づいていて、知的障害や聴覚障害などがある人に不妊手術を強制した法律です。
(引用元)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4d168ae28d69697dfec5461a70f78d8e28644db7



障害者の強制不妊の問題点を、4つほど考えてみました。



①健常者は虐待や育児放棄しても不妊手術の対象外

現在も、障害があると虐待や育児放棄のリスクがあるため不妊手術が必要だという意見をたまに目にします。

もし虐待を減らすことが目的なら、健常者・障害者の両方が対象であるべきだと思います。


虐待リスクを理由に障害者の不妊手術が認められるのなら、健常の虐待経験者、性犯罪者、無収入で経済的な責任を取れない人なども不妊手術の対象にならなくては整合性が取れません。



健常者は実際に虐待しても強制不妊という話はでてこないのに、
何もしていない障害者は対象にする、というのは、差別であると言わざるをえないと思います。



②他人の臓器を奪ってもいいという発想がまず危険

一度このような前例を作ってしまったら、

がんの家系
アレルギー

など、解釈によっていくらでも対象を広げることが可能です。

つまり、「他人がだれかの臓器を奪ってもいい権利」を作ることが問題です。


しかもそれが法律になってしまうと、一般人が法律に逆らうことは相当困難になります。
(今回も違憲だと認められるのまで70年もかかっている)


もし後々法律が間違いだったとされても、加害者は罪を償うことはなく、被害者だけにダメージが残ることも問題だと思います。

(ちなみに優生法の対象には、私の持病も含まれてました。時代が違えば私も手術の対象者でした)




③健康な遺伝子を持つ人を定義付けすることが不可能に近い



いま子供の生存率が高いのは、予防接種を打ったり、幼少期に医療が身近にあるからです。


厳密に健康な遺伝子と定義付けすることはほぼ不可能であり、将来、どんな病気が新たに生まれ誰が生き残れるかを予測することも困難です。



生涯一度も医療を受けたことがない人ならまだしも、


予防接種も打ち、必要なときに適切に医療の恩恵を受けてきた人が、

他人の遺伝子の優劣を決めていいとは思えません。



「自分は健康で優れていて、障害や難病という劣った遺伝子は排除していい」と過信していることが、優生法の問題の根幹だと思います。



もし人に優劣をつけていいならば、

優生法を作った人のほうが、他人の生命を揺るがし、社会にとって危険人物で、劣っているといえるのではないでしょうか。

体の健康さと、人間として優秀であるかは別問題です。




④健常者による虐待件数のほうがはるかに上回る


不妊手術によって防げた虐待がどれだけあったのかを考えてみると、


不妊手術を受けた人数は2万5千人あまり。


2023年の1年間で虐待を受けた人数は12万人とされています。(12万人のなかには親が障害者というケースも含まれますが)



障害者が子供を産まないことで防げた虐待件数より、健常者による虐待件数のほうがはるかに多いのではないか?という疑問が残ります。





以上、4つがわたしが思う問題点です。



健常者でも虐待や育児放棄が起こるのに、障害があったらもっと難しいのでは?

という点では、障害の種類や程度によってはあるかもしれません。(個々人による)


責任能力の有無や周りのサポート含めて慎重に選択する問題だと思います。



ただ、健常者で責任能力がないのにもかかわらず産み育てる人がいるのも事実です。


その人たちへの対応なしに、「責任能力がないから」という理由で障害者だけが不妊手術を受けることはあってはならないと思うのです。




今回、きちんと違憲と認められたことにとても安心しました。


障害者の育児の難しさに論点が集中してしまいがちですが、


一番の問題は「他人が誰かの存在価値を決めていい」という考えだと思います。



また、優生法がだめ=障害者が産み育ててもいい

ではなく、

健常者も障害者も、育児の責任能力の有無をどういう基準で考えれば不幸な目にあう子供が減らせるか?


そういう方面で議論が進めばいいと思いました。



おしまい。