ドイツ・オーストリア旅行記(^^♪《9日目 ウィーン市内観光~前編~》 | プリティーダイアリー♪ 

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こんばんは。プリンスママです。




ドイツ・オーストリア旅行9日目の記事がまとまりましたので


良かったらご覧くださいね音譜




この日は現地在住のガイドさんと添乗員さん、2人に案内されての市内観光でした元気



ロビーに集合、昨日のレセプションパーティー会場がすっかり静かになってます





全員が揃ったので、観光開始~



最初の目的地は、ホテルの目の前にある市立公園ですクローバー


公園内にはたくさんの彫像があるのですが、その中でも一番有名な像


ヨハン・シュトラウス2世の像に注目です目




彼は作曲家ですが、バイオリンの名手でもあったため


バイオリンを演奏しているスタイルになりましたヴァイオリン



1921年にこの像が出来た時は金色でしたが、1935年に剥がされてしまい


1991年に再び現在のような金色に戻されましたキラ






公園には大きな花時計がありました時計


季節によって定期的に花が植え替えられるそうで


この時(10月)はこんな感じでしたコチラ




時計の後ろにちらっと見えるのは


シュトラウスが催しなどで何度も演奏を披露したクアサロンです音譜




次に向かったのはウィーンが誇る世界遺産 シェーンブルン宮殿 ですおぉ!おお





およそ650年も続いた、ハプスブルグ家の繁栄と悲劇の王朝劇の全容がこの宮殿で確認できます



さあ、たっぷり見せて頂こうドキドキわくわく


それでは入場しまーすIN*





・・・・・



写真が撮れたのはここまで!!


中は一切撮影禁止でしたザンネン…。


ならばせめて、ハプスブルク家について書いてみようメモ



ハプスブルグ家は、13世紀から20世紀初めまで約650年間続いた王朝で

全盛期には、ヨーロッパの大部分と南米まで統治していました

その帝政の場となったのがウィーンなのです


宮殿に入ってすぐに展示されている家系図をもとに


ハプスブルク家の歴史をガイドさんに詳しく教えてもらいました



その中の、主要人物を紹介します




マリア・テレジア


15世紀に政略結婚で勢力拡大していったハプスブルグ家には


『戦いは他の者にさせよ 汝は結婚せよ』 という言葉がありました


そして時は18世紀、ハプスブルグの全盛期を築いた女帝が現れました

それが マリア・テレジア です


ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として生まれ


23歳で即位しました



と言っても実際の皇帝は夫のフランツ・シュテファンだったのですが


婿養子的な存在だったので政治的権力を持てず


実質的な権力を持っていたのがマリア・テレジアでした



それを表わしている家族の肖像画がありますコチラ




皇帝フランツ・シュテファンが指を差しているのがマリア・テレジア


これは、この国の統治者は妻のマリア・テレジアである と言う事を意味し


マリア・テレジアは右手で自身の胸を指し、私が女帝であると言う事を知らしめています



また左手で指している犬はオーストリア国民を表わし


犬のように私に従いなさいと言う意味がこもっているそうです




夫フランツとの間に16人の子供をもうけ、次々と政略結婚をさせた彼女

この風格ある姿、女帝という言葉がピッタリですねビックリマーク






政略結婚が当たり前のこの一族で、自身の子供達にもそうさせときながら


彼女自身は意外にも大好きな人と結婚し、おしどり夫婦として有名でしたカワユス



小国の王子だったフランツがウィーンに留学しに来て、見かけたマリアが惚れこみ


パパのカール6世もフランツを気に入っていたので、この当時としては奇跡的な恋愛結婚となったのです元気


1765年にフランツが突如崩御した際には深く悲しみ


それ以降自身が亡くなるまで、彼女は喪服しか着用しませんでした



ちなみにマリア・テレジアって、若いころはとっても可愛いんですよラブラブ


お母さん譲りの美貌でしたキレイ


 


実は彼女、マリーアントワネット のお母さんなんですワラッ




マリー・アントワネット


『ベルサイユのバラ』の主役の一人として、有名ですよねバラ


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マリー・アントワネットは、マリア・テレジアが産んだ16人の内の末っ子です





政略結婚で次々と領土拡大、勢力拡大をしていたハプスブルグ家


プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めるため


母マリア・テレジアの画策によって、彼女は1770年にフランスのルイ16世に嫁ぎました



愛らしい容貌で当初は市民に愛されたのですが


まだ15歳と言う幼さと、生まれ持った環境による育ちの良さから贅沢を好み


結果としてどんどん財政を圧迫していきました



飢餓に陥り反乱を起こす市民の苦しい生活を理解出来ず


『パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない』 という有名な発言がありますが

結果的に民衆の反感を買い、フランス革命で幽閉、ギロチン刑となってしまいました




余談ですが、マリーアントワネットはモーツァルトにプロポーズされたことがあるんですよドキドキ


と言っても子供の頃ですがぷぷ



モーツァルトが6歳の頃、ウィーンでマリア・テレジアの前で演奏した時


広間で転んでカツラが取れてしまいました


その時に7歳のマリー・アントワネットがカツラを拾い、起き上がるのを助けてあげましたカワユス



すると、おませさんだったモーツァルトはマリー・アントワネットに向かって


『君は優しい人だね、大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる』と言ったそうですかお2




エリザベート (愛称 シシィ)



自由奔放に生きた孤高の女性

ハプスブルグ家最後の皇帝の妻であります




 


姉ヘレーネとフランツ・ヨーゼフのお見合いの席について行ったら、フランツが一目ぼれドキドキ


姉の方ではなく妹のエリザベートに求婚しました。この時エリザベートは15歳でした



1年後に政略結婚しますが、大自然の中で伸び伸び育ったエリザベートにとって


堅苦しい宮廷生活になじめるはずもなく、姑との確執もあり日増しに落ち込んでいきました



フランツ・ヨーゼフ1世はかなりの愛妻家でしたが、イタリア独立戦争で多忙だったため留守がちで


そのためエリザベートは孤独な日々を強いられました



『結婚とは不条理な制度 売られてきた 後悔』 と精神的バランスを崩し


一人でマイデラ島に療養に出ます



この一人旅は精神の健全を取り戻すのに功を奏しましたが、宮殿に戻るとまた心病んでいきます



以来、エリザベートは公務を放棄してまで一人旅を頻繁にするようになりました



日増しに自分の世界にのめりこんでいったエリザベートは


老いへの恐怖から、美貌の維持に意識が向きました



徹底的な食事制限や、エクササイズ


5kgもあったと言われる髪の毛の手入れ、コルセット装着に毎日1時間と


常軌を逸したものだったそうですそうか…。



エリザベートは大好きな旅の道中のレマン湖畔で


イタリアのアナーキストに短剣のようなヤスリで刺されて死亡、60年の人生の幕を閉じました





フランツ・ヨーゼフ1世



エリザベート(シシィ)の夫です。


両親が不仲だったため、主に母親のゾフィーによって教育を受けました





とっても真面目なのに、何かと不幸です



18歳で即位して68年間動乱の世を治め


内政面でオーストリアの文化・経済を発展させた有能ぶりでしたが


絶世の美女エリザベートと結婚したのに、生真面目さ故多忙を極め


ろくに言葉を交わすことが出来ず、すれ違いしょぼん



決して二人は仲が悪かったわけではないのに


夫は仕事で家に帰って来ず、妻は姑と折り合わず宮殿に寄りつかないという悪循環で


夫婦はますます顔を合わせる機会が減ってしまいました



こんな家庭環境が許せなかった姑ゾフィーは


二人の間に産まれた皇太子のルドルフを夫婦から取り上げ、自身が教育を始めました



でも、これが良くなかったビックリマーク



皇太子ルドルフは家庭たるものと言うものに、すっかり不信感を持ってしまい


すっかりやさぐれちゃった皇太子ルドルフは、愛人と拳銃で心中しちゃいましたががん



さらにその11年後、妻エリザベートは湖畔で暗殺されますががん



妻の訃報を受け、『この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか』と泣き崩れました涙


すれ違ったままの夫婦生活でしたが、シシィをとっても愛していたのですね・・・



まだ不幸は続きますマジ・・・・?



息子が亡くなり、皇位継承者となった甥のフランツ・フェルディナントもサラエボで暗殺され


これが第一次世界大戦のきっかけとなります



自身は第一次世界大戦中に息を引き取り、その2年後にハプスブルグ帝国も終焉となりました





宮殿の見学を終え、裏に広がる美しい庭園を散策する時間を25分もらいました


待ち合わせ場所が宮殿の門の売店だから、戻るのに時間がかかりそう


なので走って裏の庭園に行きましたタタ


薔薇のアーチが素敵だったんだけど、花が少なくて残念えへへ…







奥に行けば、ネプチューンの泉とか動物園があるのですが、あまりにも広すぎるので


宮殿の2階のテラスからの眺望を楽しみました




うーん、もっと高い所から撮らないと、美しさが伝わらないなぁ困った




フランツ・ヨーゼフ1世のカラフルな像があちこちにありました


 




このあとは市庁舎付設のレストランで昼食ですナイフ&フォーク



市庁舎まで、車窓で観たものを紹介しますね




マヨリカハウス&メダイヨン・マンション




美しい壁画装飾で彩られた、ヴァグナー設計の2棟の集合住宅です




分離派会館




クリムトを中心に若い芸術家や建築家によって結成された


『分離派』の活動拠点として建設されたものです


金色の月桂樹の球が目を引きますね


現在は新進アーティストの作品を展示するギャラリーとなっています




国会議事堂




横幅がありすぎて全貌は撮れませんでしたえへへ…


民主主義発祥の地、ギリシャにちなんだ古代ギリシャ神殿風の建物で


正面にはバラス・アテナの泉と呼ばれる噴水があり


英知の女神アテナの彫像が立っています




市庁舎に着きました


市庁舎も、ゴシック様式の教会みたいでした





市庁舎の地下にあるレストランの入口です





回廊も素敵だわ音譜





すごく広い会場でしたきらきら 居るのは観光客ばかりです




普段は市庁舎の職員もここでランチをとるので、もっと混雑しているそうです


この日は土曜日だったので、職員は居ませんでした



おビールとワインをパパとシェアワラッ





お昼のメインはシュニッツェル、子牛のもも肉のウィーン風カツレツでした


ミラノ風カツレツみたいって言ってたから、ママも食べてみようと思って変更しなかったのですが


がっつり肉肉しくて、食べられませんでしたしょぼん




このシュニッツェルが出てくる前にちょこっとハプニングがありました


何故かシュニッツェルではなく、ステーキが運ばれてきたのですあれ



添乗員さんとガイドさんが慌ててお店の人に話をしに行って


予定通りの料理に変えてもらいました



ガイドさんの隣の席だったパパが、ちらっと間違った理由を聞いてみたら


オーダー表に『fried・・・』 って書いてあったらしく


それでお店側が『焼いた肉⇒ステーキ』と勘違いしたみたいなるほど



でもママ的には、オーダーしたツアー会社側にも問題あると思いました


調理法じゃなく料理名でオーダー入れたら、間違う事は無いですよねうんうん




予定より押し気味に食事時間がかかったので、急いで移動です


奥に見えるツインの尖塔は、ヴォティーフ教会です


 




このまま午後の観光についても書き綴り、1編に収めようと思ったのですが


あまりの長文で、保存できない事態が生じてしまいましたびっくりsei


なので急きょ前後編に分けることにしますビックリマーク



午後の記事はほぼ出来てますので、すぐ紹介できると思いますワラッ


それでは次回の後編をお楽しみに~つづく





ひ と り ご と


記事は40000字までという制限があるのを初めて知りましたそうか…。