本日付け記事として、緊急うP。
前の記事は、後程改訂の上明日付にします。
~プリキュア御意見番・二代目喝御大
手前の左が、広島電鉄の原爆被災電車。トミカになっておるのです。
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以下、全文を掲載します。
もうひとつの8月6日・広島 ~水原茂の思い
1958年。昭和33年8月6日。
昨年7月開業した広島市民球場で、巨人戦ダブルヘッダーが行われた。
第1試合は巨人、第2試合は広島の勝ち。
それは、今回の論点ではない。
今回は、広島カープの対戦相手のチームに起こった出来事を述べる。
5月29日の中日球場の中日戦を最後に4番を外れた赤バットの打撃の神様・川上哲治に代わり、エンディ宮本敏雄、ウォーリー与那嶺要の二人の日系人選手が4番を務めていた。
そしてこの日の第1試合開始直前。
5 長嶋
~4番・サード・長嶋 背番号 3
広島市民球場のスコアボード、ビジター側の4番目に記された。
その文字と数字とその位置が、歴史の変わり目を明確に示した。
第1試合。巨人4番・長嶋は、広島先発・中本富士雄より7月10日の後楽園での大洋戦以来約1か月ぶりの本塁打を放った。この日から日本シリーズ終了まで、長嶋茂雄は巨人の4番打者として出場し続けた。
福岡は平和台での3戦を終え、後楽園球場に戻り迎えた日本シリーズ第7戦。
もはや敗戦間近の9回裏。彼は先頭打者として登場。
神様仏様とまで称された西鉄の鉄腕・稲尾和久投手より中越安打を放ち、中堅手高倉照幸が後逸するその間、彼はダイヤモンドの線上において目が覚めるかのような走塁を見せ、スライディングで本塁生還。ランニング本塁打とした。
その後の彼の選手・監督としての活躍は、ここでは述べない。
広島市民球場ではそれから半世紀にわたり、8月6日は試合をしなかった。
その代わり、尾道、福山、あるいは岡山の球場で、主催試合を挙行した。
広島市の休業日として、条例で定められていたのがその理由だった。
長嶋茂雄が監督を最後に辞任して7年後の2008年。
長嶋茂雄の4番お披露目から50年目のこの日。
閉鎖の決まった広島市民球場で、久しぶりに8月6日の公式戦が行われた。
以後新球場に代わったが、この日行われる試合にはピースナイターと銘打たれ、原爆追悼と両立されている。
時を戻そう。
1958年当時の巨人監督は、水原茂。
慶応のスタープレイヤーでもあった彼は、応召し、シベリアに抑留もされた。
彼もまた、戦争経験者であった。
長嶋をいつ、4番に据えるか。
それはもう、時間の問題だったことは明らかである。
しかし、それを何時にするか。
水原茂は、ずっと、考えていたに違いない。
だから、宮本や与那嶺を川上の代わりに4番に据え続けていたのではないか。
この日遂に彼の、否、野球ファンの思いを、満を持して世に出したのである。
1958年8月6日。4番・サード・長嶋の初舞台。
水原茂は、この舞台を広島の地で演出することによって、原爆犠牲者への追悼と鎮魂を果たしたのではないだろうか。
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もう一つ、こちらも全文掲載します。