先行公開中じゃが、少し、加筆したぞ。

わしの娘(=隠し子)のみのりん。

文芸部に入って小説を書いていた中1の頃のイメージ画像

 

彼女は、クラスメイトや後輩からは、その作品を評価された。

しかし、文芸部のとある先輩が、厳しい指摘をした。

その指摘内容とは、以下のとおり。

 

1.描写がありきたり

2.どこかで見たような話である

2.自己の経験が全く反映されていない

3.上記より、頭でっかちの文章であると総括する。

 

その「先輩」とやらの指摘、確かに、筆者みのりんとしても、後日、正しいと思えたそうな。

 

さ~て、ここで、ニッポンの誇るサマーン星の人気地球人・酔っ払いさんが、なんと、

娘(=隠し子)のみのりんの弁護をいたす。

 

いささか、清瀬一郎大先生に風貌が似ておるのは、気のせいではない("^ω^)・・・

もちろんわしは、みのりんの小説の全文を読んではおらん(まあな)。

 

じゃがな、逆に、そんな小説(文章)であっても、なぜ、彼女のクラスメイトや後輩たちは、

「面白い」

「トロピカっている」(わっはっは)("^ω^)・・・

等と評したのか?

 

そこに、彼女のとるべき創作者としてのポイントが存在しておるのである。

ドリームキラーの先輩とやらの発言内容で目をくらまされてはいかんぞ!

 

まず、先程指摘の1.ないし3.については、みのりんが克服せねばならん課題ではあろう。

だが、

1,については、下手を打てば、単なる「奇をてらっただけ」に終わるのが、オチ。

2.であるが、どこにもなさそうな話を大向こうを張って作ってみたところで、これまたやっぱり、

 「奇をてらっただけ」で、終り。もしくは、非現実のぶっとびで相手にされんだけ。

 逆に、名作などを「オマージュ」するという手法も、厳然としてあるわけでな。

3.については、そりゃあ、いくらかでも反映できるようにするに越したことはない。

よって、1.ないし3.については、筆者の作中における「組合せ」の妙こそが、すべてなのである。

 

ありきたりな描写を単に並べただけでは、そりゃ、ありきたりで終わる。

どっかで読んだような話程度に思われるようじゃ、そりゃあしょぼいってことだろうが、じゃあ、どこにもなさそうなのを機をてらってみたところで、裏目にしか出ないのがたいていのオチじゃ。

プロ野球選手で一流の成績を残さないと野球の評論ができんわけじゃねえ。コーチや監督ができんわけじゃねえ。

まあ、全部一流だった御方もおられるけどな(守備は除く。わっはっは)("^ω^)・・・。

 

だが、それらをうまく組合せていくことによって、新たな切り口ができる。

そうしていくうちに、「ありきたり」を脱する表現が生まれくる。

そこに目を向け、全力でそこを目指していくことこそが、「創造」の根本なのである。

 

さてここで、かの1.2.3.なくしてもみのりん小説が、複数の読者を喜ばせたのはなぜかを検討し、総括してみた。

 

みのりんの小説を評価した少女たちは、おそらく、

体験に基づいていないもの、自ら読書において得られた豊富な知識を組合せた上で生れた世界観

に、むしろ、彼女たちが体験していないどころか頭でも思いつかない世界へといざなわれ、

そこで、かかる評価が得られたのではないかと、わしは思料するのである。

もっと言うてやろうか。

どこかで読んだような話とのたまったその先輩とやらのほうがな、なまじ、本を読んで知ったような者の意見の典型やぞ。

 

正直、ありきたりではない独創表現は、短編の中ならば、せいぜい一つやそこらでよいのではないか。

 

まさに、元巨人遊撃手の広岡達朗氏が、評論家時代に早稲田大学の先輩でもあるサンケイスポーツの先輩記者に言われたとおりのこと。

伝えるべきは、一点に絞れ。

そして、その他の事象は、その一点、作品中で言うところの「一転(!~誤植だったが、あえて表現を活かすために残した)」に向けて論じていけば、まとまった文章になる。

 

とりわけ小説を執筆するにおいても、短編であれば、テーマは一つに絞るべき、人をうならせようとする描写も又同じ。

大向こうを張った描写をいくつも入れ倒したところで、そんな所業は空回りに終わるのがオチ。

 

いずれ、続きをやるで。

全国のみのりんファンの諸君、期待して待っといてくれたまえ。

 

へびのあし

かれこれゴソゴソやって、酒なしでこの時間まで休んだり仕事したりしておった。

後は、酒飲んで寝るだけじゃ。

ビールはないから、トリスウイスキーじゃがな。

写真は、イメージ画像ニャン!