これは、私がアマゾンレビューに現在公開している記事です(2019年1月13日付)。

 

~諸般の事情で以前書いたものはほとんどが非公開になっておりますが、これはその後に書いたもので、2020年8月24日現在も公開されています。

 

炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡 (集英社文庫)

澤宮 優 著

 

以下、本文。

 

巨人軍監督原辰徳氏とその甥である巨人軍投手・菅野智之氏にとって、それぞれ父であり祖父でもあるアマチュア野球指導者・原貢氏の半生記である。

三池工業は、1965年の夏の甲子園大会で初出場にして初優勝した。

 

三池工業高校の最寄りの国鉄(現JR九州)最寄り駅は、大牟田駅である。

この駅を朝9時過ぎに出る80系気動車による特別急行「みどり」は、その前年の新幹線開業に伴うダイヤ改正により、大阪ー博多間の運転を、熊本に延長されていた(付属編成は大分行)。

しかしこの後、「ヨンマルトウ」こと1965年10月のダイヤ改正で佐世保に行く列車となり、熊本には来なくなった(付属編成はそのまま大分行)。

そしてその後、特急「みどり」は、再び大牟田駅に来ることはなくなった。

なぜなら、「みどり」は、戦後初の山陽線特急「かもめ」の補完列車として「サンロクトウ」こと1961年10月のダイヤ改正で登場した特急列車であり、「かもめ」の及ばないところに行くための列車としての役割を、最初から今に至るまで負わされているからである。

なお1967年10月、世界初の寝台座席兼用の581系電車が落成したとき、この「みどり」は、夜行列車の「月光」とともに、昼行列車として、この新鋭電車に置き換えられた初の列車となったが、その1年後、いわゆる「ヨンサントウ」改正によって、すぐに座席車の481・485系電車に置き換えられてしまった。

 

それはともかく、三池工業の原監督以下ナインは、大牟田から「みどり」に乗り、夕方に関西入りした。

そこから、彼らの快進撃は始まった。

その詳細は、本書をお読みください。

彼らは優勝し、福岡県内をパレードし、故郷に錦を飾った。

その背景には、斜陽産業たる炭鉱町の悲喜劇が、否応なく影を落としていた。

彼らは、その影を、見事に払しょくしてのけた。

それをもって、炭鉱町としての活気が再び戻ることは、なかったけれど。

原貢氏はその後、対戦した東海大学の総長・松前重義氏に見いだされ、東海大相模の監督となり、再び甲子園優勝を飾った。それも含めて、後の親子鷹だの、巨人軍4番原辰徳の活躍だの、現在の菅野智之投手の活躍だの、それは、三池工業の優勝のエピソードの前には、もはや、その余興に過ぎない。

それほどにも、原貢という人物のもたらした三池工業の優勝は、日本の野球界にとって、一大エポックだったということである。

かくも大きなエポックは、巨人V9のごとく、長続きしなかったのは、必然かもしれない。

だがそのエポックは、後の世代に、ボディーブローのように影響を与えてきた。

そして今も、与え続けている。

貢氏の息子・辰徳氏は、三度、巨人軍監督に就任し、今年からまた指揮を執るとのこと。

アマチュアとプロの差は大きいが、野球の監督という点においてまったく同一の立場で、彼はこれから再び、戦いの場に挑むのである。

 

特急「みどり」という、たった1年間だけ大牟田駅を通り、停車していた特急列車に乗って甲子園へと旅立った彼らの栄光は、翌年に引き継がれることはなかった。

「みどり」は、その年の秋、大分と佐世保へと去っていった。

三池工業は、その後甲子園には出場していない。

 

三池工業ナインと特急「みどり」。

半世紀以上前の、たった1年の間の、つかの間の邂逅。

しかしその邂逅は、今も、野球界を動かす一つの力となっている。

 

ちなみに特急「みどり」は、新幹線博多開業後、福岡から佐世保への特急列車として、いまも、長崎発着の「かもめ」の行かない佐世保方面への特急列車として、いまも九州の鉄道に彩を添えている。

~余談だが、「新大阪ー佐世保」の、特急「みどり」であることが明らかなサボ(行先表示板)は、神戸のその筋の店で、15万円の値段がついていた。