最近、スマホのゲームで、あきもせずに、暇つぶしをしている。
そして思い出すのは、父の晩年である。
僕が帰省すると、父は麻雀のテレビゲームをよくしていた。その頃は、父の立ち位置を理解できていなかったので、なんでそんなにゲームをするのかよくわからなかったのである。
今、自分が、その頃の親父の歳に近づくに従って、その気持ちがなんとなくわかる。
要するに、することがない。正しくいうならば、期限が定まったすることというのがほとんどない。することはあるけれど、別に今日中にしなければならないというわけではないのである。
父は、囲碁が好きだったので、今にして思うと、囲碁をすればよかったなと思う。
結局のところ、親の気持は、自分がその立場にならないとわからない。
僕の場合はそうである。親父は90過ぎで他界したから長生きした方だと思う。これからもその時々で親父の思いに触れることがあるんだろう。と思うし、ある意味、父の背中を見てこれからも生きていけれる幸せな立場でもある。
兄貴が亡くなってから、今年で、、、
スマホは便利である。2018年か。
4年。そやな、3回忌はコロナで中止になって、昨年は4回忌やったからいかなかったからな。
ということは、今の俺の歳では兄貴は未だ生きてたんやな。
兄貴は、大学時代に囲碁クラブに所属していて、その後もずっと囲碁をしていたので、兄が帰省するといつも親父と囲碁をしていた。自分はそれを遠目から見ていた。(僕もそういう家庭で育っているからルールは知っている。実力的には3級くらいかな。囲碁雑誌での段級判定では初段とかもあるが、多分そこまではいってない)。
今までも父の思い出をブログに残しておこうと思っていたのだが、ついつい無精なハッピーは後回しにしていた。しかし、俺もそんなに長くはないだろうから、1日にひとつ思い出して記しても、年間365しか書けない。
それを残したからどうなるというものでもないが、自分の中で、或は自分の生きた証として、纏めておきたいという思いがある。
初めが肝心、もう少し洒落たスタートをきりたかったが、初めの一歩を踏み出さないと先に進めない。この辺りについては、また後で補足訂正すれば良い。
今日は、晩年父がハマっていたと思った麻雀ゲーム、多分それは父の本意ではなかったんだろうと思った次第である。