戦中生まれの男84歳です…終戦直後の幼少の頃(多分5歳頃)。
故郷の菩提寺(安長寺)の境内で真夏の夕方・・突然の雷雨で、
境内の観音堂に逃げ込んだ・・・・。
その直後、近接のどでかい銀杏の木に落雷 ̄ ̄ ̄瞬間に気を失った。
銀杏の木は真っ二つに裂け…その後枯れ切断されたと聞く。
帰宅しない筆者を心配した家人が観音堂で倒れている筆者を見つけた模様で、奇跡的に傷一つ無かったそうだ。
その後の人生は奇跡の数々で84歳の今も生きている。
海で1回,川で1回溺れ、海は大人に助けられ、川は浅瀬に流れ着いた。
丸山公園の軍が建立した御影石の1「中禮の塔」
日清日露大東亜戦争で戦死した5000有余の亡骸が納めて有る。
特に東洋一と言われた、大刀洗飛行場で特攻や爆撃で死んだ大くの
人達が眠っている。
塔裏に書かれていた文章は暗記している。
勇士らは生命を捧げたり
勇士らは戦いに打ち勝てり
その御霊、微笑みてここに在り
今仰ぐ中禮の塔のまえ
甘木に駐屯した米軍も、見事過ぎる中禮の塔は壊せずに残したが、
塔前の広場に在った「ほうあん殿」は壊されたと聞く。
この広場を遊び場の一つとして育ち、地元高校の卒業アルバムに
友達と塔に挙がって写真を撮った1枚が卒業アルバムに残る。
この塔横に続く植林された松林の中の細い道を、幼少の頃、数㌔も歩き
着いた所は、葬儀場(焼き場)だった(奇跡)。背後霊が居たかも❕❓
その後、新潟で新居を構え、数々の奇跡に遭遇、命ながらえ今が在る。
奇跡の一部👇
1,手焼き窯でガス爆発、顔面火傷で数m飛ばされ生還
顔面を包帯でグルグル巻きの状態でマイカー運転帰宅。
2,真冬の凍結した夕方、妙見の坂道で定期便のトラックがスリップし 咄嗟にブレーキを連打、数cm手前で停止・・・Uターン。
3,柏崎市の帰り道、信号で停止中のマイカーに向かって、
減速せず急接近する車、妻に体を前に倒し車に掴まれと指示。
その直後、急接近した車は道路わきのポールを数カ所倒し、
筆者の車の脇の止まり頭を下げて頭を下げて謝罪していた。
4,自宅の高床式屋根の雪庇落しに、ほぼ8mの高さから、
脇の道路に転落…救急車で搬送された長岡市の中央病院。
両膝骨折で、即入院、両足ギブスで3か月入院と宣言されたが、
10日で退院~~その後半年は支援2と成り解除。
5,60代半ば、レベル4の大腸がん発症レベル1の胃癌ともども、
7時間余の手術で生還し、自宅での抗ガン剤治療が始まり、
3週間後肝臓が腫れあがり、肝臓に圧迫された横隔まくの所為で
24時間シャックリが止まらなくなり即入院・・・抗癌剤不適合と診断」
病院はおそらく助からないと判断したのか生もの以外なら好きな物を 食べて良いと宣言され、自宅から持ってきた食品を食べ続け・・
完治して今が在る。
まだまだ、特異現象は実体験して来た。