故郷(甘木)の我が家は8人姉兄弟の大家族だった。
当時の国家戦略は産めよ増やせよ・で・国力強化が国策だった。
父は歯科医師でそれなりの収入が有り、8人の子供でも養育できたが、
終戦後はどんでん返し、配給だけでは、食べ物にも窮したようだ。
父自身が栄養失調になり、子供は瘦せてガリガリだった。
筆者は敗戦時4歳ですぐ上の姉は多分6歳・・・小学入学の直前、
疫痢に掛かり急逝した…一番仲の良かった姉が急逝し半狂乱で
姉の名前(五百枝=いほえ)を正しく言えず「おえちゃん」が死んだ~~
と泣き叫んだそうだ。
姿や顔は思い出せないが懐かしい思い出は今も有る。
兄は高校で先生と対立、退学処分され父には勘当され人生が狂った。
筆者が高校時代、兄と会えたが、その後50年間、音沙汰無しだった。
父が死亡した際も、勘当の身みだと言い張り、葬式にも出て来なかった。
母死亡、直後、柳川で筆者と姉弟が思い出を語り合うと連絡したら、
出席したいと連絡が有り、50年ぶりに柳川で再開した。
栄枯盛衰~~~一瞬の感。
壬申戸籍 は一般人は観る事が出来ぬ決まりで、明治以降の
臨済宗の位牌入れの中は木札で一杯と成り、筆者が入る余地がない。
あれや~~これやで永代供養を行い、
当地の曹洞宗の寺で墓石を求める事に決定・・・
倅家族は東京暮らし ̄ ̄経緯は伝えてあるし、後は野と成れ山と成れ。