三国トンネルを潜り抜けた先は両窓の外は高い雪壁が湯沢駅まで続いていた。
38豪雪直後の豪雪は生まれて初めての観た豪雪だった。
当時の小千谷中心地では本町の道路こそ自衛隊の努力で車は通行可能と成っていたが、屋根雪が4m強の雪柱が残され各家ごとに在った。
就職した米菓会社はアイスクリーム会社に比べ衛生観念は極端に低かった。
トイレは男女共同(吃驚仰天)後に転職したが、やはり同じだった。
トイレの数が少ないので女性でも工場の空き地で尻捲り…・❕❕❕。
誰も咎めなどしなかった・・夏に成ると男は海水パンツ一つで作業。
高給取りは半年間の使用期間だけ・・・・・・・。
使用期間が過ぎたら、再評価され給料が数千円減額・・即退職が2名。
研究室の設備は高校の物理教室より優れていて一目でレベルが高いと判断し、技術習得の為、残る事にした。
両眼の顕微鏡は(4000倍のレベルアップ)
化学天秤+簡易天秤
真空デシケータ+通常のデシケータ3台
分析設備は完備で、薄層クロマトグラフィーまで有った。
研究室長(予科練)の言う言葉は絶対で、
10の資料を10の分析方法で準備し実験、後かたずけ迄一人で終わらせてこそ一人前と言われ続けた。
原料米の膨潤状態の細胞まで、顕微鏡観察した。
薄層クロマトグラフィーの体験もした。
折も折、新潟県が米菓製造技術向上の為、加茂市に食品研究所を開設
県内すべての米菓会社の若手を数名づつ加茂に集め泊りがけで研修が始まった。
筆者も選ばれ同じ釜の飯を食い、意見を述べ合い楽しかった。
同期の桜たちは大企業の社長や専務などに成り出世。
筆者は会社が融通手形で倒産し七転び八起きの流転の人生。
しかし、父の教えを忠実に護り、60歳定年を大手を振って退職。
60歳以降はドライブを満喫しブログ記事を1万超書いて今に至る。
まだまだ続く。